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毛利良勝の編集履歴

2023-01-12 09:56:49 バージョン

毛利良勝

もうりよしかつ

毛利良勝とは、中部地方の戦国武将。織田信長・信忠と二代にわたって仕え、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったことで広く知られる。(生年不詳-1582年)

概要

尾張にて勢力を有していた織田氏(織田弾正忠家)の家臣の一人。出身も尾張とする見解があるが確定を見ておらず、現在でもその出自は定かではない。

他方でこちらも詳細は定かではないものの、織田家臣の中にはもう一人毛利十郎(※)なる人物もおり、『信長公記』では「良勝の桶狭間での武功は十郎の冥加(※)のおかげと噂されていた」との記述があることから、恐らくはその毛利十郎の一族に連なる人物である、という可能性も指摘されている。

はじめは織田信長の馬廻衆の一人、もしくは小姓として仕えていたとされ、この当時は毛利新介と名乗っていた。

その後、永禄3年(1560年)に起こった桶狭間の戦いでは、同じく馬廻衆の一人であった服部一忠(小平太)と共に、敵軍の総大将である今川義元に挑み、これを討ち取る(※2)という大手柄を上げる。これにより黒母衣衆に抜擢されるという大出世を遂げ、同時に諱を良勝に改めた。


もっとも、その後の良勝の働きは戦場よりも、むしろ文官としてのそれへと比重を移していくこととなる。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めで尺限廻番衆(※3)を務めたことはあるものの、基本的に信長やその嫡男の信忠存命時には、彼らの側近兼吏僚として活躍しており、多くの史料にその名を名前を遺している。

天正10年(1582年)の本能寺の変でも、信忠と共に彼の宿所であった二条御新造に立て籠もり、明智光秀の軍相手に抵抗するも、奮戦空しく討死した。またこの二条御新造での攻防戦においては、前出の服部一忠の弟・小藤太も彼らと運命を共にしている。


(※ 『信長公記』における十郎の冥加とは、家臣によって謀殺の憂き目に遭った斯波義統(尾張守護)の遺児を保護・養育したことを指すもので、この義統の遺児も後に毛利長秀(秀頼)と名乗り織田家臣となっている。また毛利十郎を名乗っていた人物には、天文年間に稲葉山城攻めで討ち死にした毛利敦元もいるが、こちらは時系列的に十郎の父に当たる人物であろうと見られている)

(※2 その際、義元に親指を食いちぎられたとの話も広く知られるが、これは『太閤記』などに見られる逸話である)

(※3 さくきわまわりばんしゅう。主君の側近として、主に本陣の守備や限定的な普請などに携わる)

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