略歴
1517年生まれで、越後の上杉家に仕えるが一時は上杉謙信を裏切り、小田原北条(ほうじょう)氏康につく。その後帰参を許され、上杉家に復帰謙信の後継争いとなった御館の乱で景虎を支援した事から、武田勝頼の元にはしり、その滅亡後は滝川一益、その没落後は再び小田原北条氏政につくが真田昌幸への出兵を拒否して、再々度上杉家に戻り、小田原北条軍と戦うが敗退。家督を息子の高広(同名)に譲っている
1587年死去
度々寝返っているが、その都度許されており、優秀以上の実力は持ち合わせてたと言って良いが、やはり目立つのは『北条』と書いて「きたじょう」と読む事だろうか。それも小田原北条と度々関わりがある事もあり、ややこしい事に拍車をかけた。
さすがに小田原北条家についた際には、ややこしいから「喜多条に変えろ」と改名を強制させられてる。後からつけたのは明らかに「ほうじょう」の方だが、小田原北条家に経緯が経緯だけに仕方ない。ちなみに、歴史的にはこちらの「きたじょう」の方が歴史は古く、元は中国地方で名を馳せた毛利系の祖を同じくする家系である。
殿といっしょの北条高広
直接は登場しないが、彼を見て誰もが思うであろう「『きたじょう』とか紛らわしい」事をネタに(そのネタしかないだろう、というネタ)弄られるが、謙信に背いた所で信玄と外交関係を結ぶがあっさり敗れて、以降出番は無い。