概要
逆に他人のした事の結果に対して自分が責任を負わなくても良いという意味でもあるのだが、そうした事例で肯定的に使用される事は稀である。
2004年に発生したイラク日本人人質事件では、危険地帯であるイラクでボランティア活動を行っていた日本人が現地の武装勢力に誘拐され、日本国が連帯責任者となって彼らの解放交渉や救出活動を行う事になった。これに対して国内では人質の自己責任を問う声が高まり、マスコミ各社や政治家などが救出された人質に対して「救出費用を請求するべきではないか」という意見を発するまでに至った。
是非
確かに、社会において責任は必要である。
特に自由主義社会においては、自らの行為には自らで責任をとる、という建前は否定されるべきではない。
しかし、そのような建前を押し立てるばかりでは、社会からこぼれ落ちる人々は絶対に出てきてしまう。
こぼれ落ちた人々を突き放すばかりでは、人道的な問題も生じるし、治安の問題も生じる。
うまくいけば社会の利益になる挑戦が失敗したようなケースまで「自己責任」で突き放していては、社会の利益になる挑戦をする者はいなくなるだろう。
完全な「自己責任」を要求するならば、それは弱肉強食に等しい修羅の世界や、停滞を招くこととなる。
他方、自己責任を求めない場合は、結局「社会全体がその責任を負担してあげなければならない」ことにもなる。
その場合、努力して成果を得た成功者が、成果を出していない者に自らの成果を恵んであげなければならないことになる。
成功者としては、「何故努力して成功した自分が失敗した者に恵んであげなければいけないのか」と言う気分になるのは無理もないところがある。
加えて、日本社会全体から、金銭的・精神的な面で「他人の責任を負担する余裕」がなくなってきた。
そのため、自己責任という言葉は特に日本社会で大きく幅をきかせるようになってきたのである。
どの程度自己責任を強く求めるかについては、人によって考え方が色々あり、明確な正解が存在するわけではない。
しかし、
- 本来責任のある加害者が被害者に対して「自己責任」と言うことで責任逃れの口実にしようとする
- 本来弱者などを救済すべき立場にあり、その権限もある者(警察・役所など)が弱者を自己責任の名の下に突き放してしまう
- 環境や出生などの外的要因や不可抗力を無視したり、ほんの僅かな落ち度をあげつらうことで弱者に的外れな説教を行う
- 自己責任で突き放されるのを恐れるあまり弱者が助けを求めることも躊躇し、犯罪など最悪の方法を採ってしまう
など、自己責任の過度な強調がもたらす弊害は決して小さくない。