自己責任
じこせきにん
自己責任
自分のした事の結果に対して自分で責任を負う事。「自分に責めのない結果に対してまで責任を負わなくても良い」という意味でもある。
人間が身分や共同体に縛られていた前近代にはこういった発想はなく、個人主義が浸透した近現代に広まった考え方である。
俗語的用法
日本では俗に「自業自得」とか「自分が決めたことで人に迷惑をかけてはいけない」といった意味で使われることが多く、「個人は自己の選択した全ての行為に対して責任を負う」とすら解釈されていることすらある。被害者の落ち度をあげつらうことで被害者叩きの口実とされるなど、本来の個人主義に基づいた自己責任の考えが浸透しているかは怪しいところがある。
2004年に発生したイラク日本人人質事件では、危険地帯であるイラクでボランティア活動を行っていた日本人が現地の武装勢力に誘拐され、日本国が連帯責任者となって彼らの解放交渉や救出活動を行う事になった。これに対して国内では人質の自己責任を問う声が高まり、マスコミ各社や政治家などが救出された人質に対して「救出費用を請求するべきではないか」という意見を発するまでに至った。
など、本来責任を負うべきものが責任逃れのために「自己責任」という言葉を使う例も後を絶たない。
解説
自己責任の考えは投資家の発想と相性がよい。投資には「自己責任原則」なるものがあり、投資家は様々なリスクを承知の上で、様々な企業や金融商品に出資し「どれくらいまでなら損をしてもよいのか」という許容範囲の中で責任を負うことが求められる。投資判断を誤り損失を被ったとしても、(あらかじめ決めた範囲内で)自らが負担しなければならないし、損失の負担を負いきれなければ破産に追い込まれることになる。もちろん投資家に正しくない判断材料を提示し、誤った判断をさせるのは犯罪であり、厳しい処罰を受ける。
自己責任の考えは「個人にはあらかじめ自由な選択肢が与えられている」「個人は結果がどうなろうとも責任をとる能力がある」という2つの条件を前提としている。確かに上記の投資のようにそういった前提が成り立つ局面もある。しかし、現代社会においても、いついかなる局面においても成り立つ条件ではない。
個人の与えられた条件や生まれ持った能力は千差万別であり、また現代社会においても個人に完全に自由な選択肢が与えられているという前提はありえないことである。個人の所属する諸々の共同体(会社、家族、学校、地域社会など...)について、投資家のようにリスクテイクのためだけに所属していると仮定するのは無理がある。