概要
1477年、朝倉家七代目当主孝景の八男として生まれる。当初嫡男として遇されていたと言われるが、父孝景が死去した時まだ4歳だったため、家督は兄貞景が継ぐ。
敦賀郡を治めていた一門の朝倉景豊が謀反を計画しているのを知ると、それを密告。自害させられた景豊の後釜に着いて、朝倉家の軍務を取り仕切ることになる。それを契機に家中で頭角を現していく。
この頃、越前の隣国加賀を統治していた一向宗が度々勢力拡大を目指して朝倉領に侵攻してくる。
周辺の越中、能登の門徒と合流してふくれあがった一向宗の軍勢は、越前の九頭竜川一帯で朝倉軍と対峙。宗滴は朝倉軍の総大将を務めることになる。この時一向宗側は30万を超えていたと言われ(もちろん大幅に誇張されているだろうが)、対する朝倉側は1万程度だったと言う。圧倒的に不利な状況の中、宗滴は夜襲を敢行。これが功を奏して一向宗側は潰走する。この九頭竜川の戦いで、越前国内の一向宗の拠点を奪うことに成功した。
その後は幕府の命令で若狭、丹後で起きた反乱を鎮圧する。
そして美濃で守護大名土岐家の家督争いが起きると、それに介入した浅井亮政(長政の祖父)を六角家と共に牽制。浅井家本拠地である小谷城の一角を占拠し、六角家と浅井家の調停を務めた。それ以降、彼が占拠した一角は『金吾獄』と呼ばれるようになる。
更に将軍と管領の要請で上洛。京周辺に勢力を伸ばしていた三好家との緒戦で、見事勝利を収めている。これらの活躍で朝倉家はその地位を盤石にした。
1531年、一向宗の内紛が起きると能登の畠山家と共に加賀に出陣。しかし畠山側が壊滅したため、撤退を余儀なくされている。そして1555年、越後の上杉家(謙信とは別の家)と再度加賀に出陣。途中まで順調だったが陣中で病に倒れ、帰還した一乗谷で死去。享年79歳。
朝倉宗滴話記
宗滴の来歴や教訓などが、家臣の萩原宗俊によってまとめられた。後にこれは編集され、『朝倉宗滴話記』として完成している。成立年は不明だが宗滴の死後と思われる。
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」の一文が有名。
他にも国を治める手本として今川義元、三好長慶、武田信玄、毛利元就、長尾景虎、正木大膳亮(なぜか彼だけ里見家の家臣)、そして織田信長を挙げている。
当時まだうつけと評判だった信長の台頭を予期しており、臨終の際に『後三年生きてその行く末を見てみたい』と語ったと伝わる。
信長の野望
朝倉家家臣として登場。いまいちパッとしない同家家臣団のなかでは、全てにおいて標準以上の極めて高い能力を誇る。ただし、『信長の野望』に用意されているシナリオでは既に高齢であることがほとんどで、開始まもなく死んでしまう。似たような境遇の長野業正らと合わせて、ファンの間では高性能じいちゃんと呼ばれている。