史実
紀元前234年(幽繆王2年)、秦の将軍の桓齮が趙の平陽・武城を攻撃した。扈輒は敗死し、10万人が斬首された。なお、『史記』廉頗藺相如列伝では、扈輒が敗れて戦死したのは武遂と記されている。
キングダム
趙将軍→大将軍
かつて燕国との戦線で猛威を振るった「邯鄲の守護神」の異名を持つ名将。何事においても動じることがなく、夏満曰く「誰よりも"痛み"を抱えている」とのことで、顔に飾りの様な物を刺して痛みを感じて平衡を保っている。悼襄王には気に入られていたが、本人は嫌悪していた。
鄴編で、列尾に赴き王翦軍の補給に来た介億軍と対峙する。その後、騰軍と対峙した時は舜水樹とともに北部軍が到着するまで列尾を死守しようとしたが、増援が来ないことを知ると全ての軍を邯鄲へ撤退させて邯鄲周辺を強固にすることを提案し、列尾から撤退した。
その後は、大将軍兼趙軍総司令として、最前線で秦軍と対峙している。前進を強行する桓騎を討つべく出陣、後に連行された雷土達に凄惨な拷問を施す。岳白公を討った飛信隊が迫ると虎白軍を迎撃させるが、その隙を桓騎軍に突かれ本陣を急襲され、桓騎軍に取り囲まれ討ち死。首は晒され、総大将の討ち死と敵援軍の虚報で数万の扈輒兵は桓騎軍に降伏し、その後に捕虜全てを処刑された。