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徳川光貞の編集履歴

2024-04-03 05:41:58 バージョン

徳川光貞

とくがわみつさだ

徳川光貞とは江戸時代前期の大名。

生没年 1626(寛永3)年~1705(宝永2)年

官位 従二位 権大納言


紀州藩並びに紀州徳川家初代当主・徳川頼宣の長男。母は側室の理真院。


経歴

1667(寛文7)年に紀州藩主となる。藩政は法令27箇条を制定し、1677(延宝5)年には紀州藩の基本法となる「農村法」を施行するなど、紀州藩の地盤固めを行った。

1698(元禄11)年に隠居し、長男の綱教が継いだが宝永2年5月に病死。綱教の死に気落ちしたのか、光貞も同年8月に、そして綱教の跡を継いだ三男の頼職も9月に亡くなるなど不幸が積み重なることになった。

しかしその後、5代藩主となった四男の頼方改め吉宗のもとで、紀州藩は再生への道を歩むことになる。


外部リンク

徳川光貞 - Wikipedia


関連タグ

江戸時代 紀州藩 紀州徳川家

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