概要
江戸時代の前期に活躍した徳川幕府の幕臣である。
天正16年(1588年)に三河藩(愛知県)の東加茂郡における足助城の城主・鈴木重次の三男として生まれ、徳川家康・秀忠親子に仕えて大坂の陣に従軍した後に兄2人が別家していたため三河鈴木家の家督を継ぐ。
そうして上方代官を歴任した後に島原の乱にも鉄砲隊長として参戦し、総大将の松平信綱に従って戦地入りし、原城攻めで一番乗りの武功を上げ顕彰されている。
彼に対する信綱の信任は篤く、乱の終結後は天草の実態調査も命じられ、幕府直轄領(天領)となった際は天草の初代代官に任じられた。
重成は、以前に天草を統治していた寺沢広高・堅高親子による圧制により荒廃していた天草を立て直すべく、富岡城の城下に陣屋(役宅)を置いて民政に取り組み、植民を促進して寺沢家が算出していた石高も疑問視し、再検地を行った。
天草諸島の全島を十組八十八の村に区画し、各組に一人ずつ大庄屋(大名主)を、各村には一人ずつ庄屋(名主)を置いて行政の浸透をはかり、外国船の動静を探る遠見番なども設置して、行政機構を整えていった。
キリスト教に救いを求めて破れたことで苦しむ人々の心を癒すため、高名な曹洞宗の禅僧で仮名草子(散文)の作家でもある兄・正三の呼び寄せ、「日本人の原点へ帰ろう」と仏教への改宗を勧めていき、更に幕府から三百石を持ってきて、かつてキリシタン大名や煽動された信者たちにより破壊された各地の神社や寺院を、曹洞宗に限らず次々に復興させていき、早朝に鎮守の森から太鼓の音が響き、夕方には寺の梵鐘が聞こえるようになり、日本の原風景に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻していったという。