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鈴木重成

すずきしげなり

鈴木重成は、日本の江戸時代における武士である。江戸幕府の幕臣で、天草諸島の代官。
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概要編集

江戸時代の前期に活躍した徳川幕府幕臣である。

天正16年(1588年)に三河藩(愛知県)の東加茂郡における足助城の城主・鈴木重次の三男として生まれ、徳川家康秀忠親子に仕えて大坂の陣に従軍した後に兄2人が別家していたため三河鈴木家の家督を継ぐ。

そうして上方代官を歴任した後に島原の乱にも鉄砲隊長として参戦し、総大将の松平信綱に従って戦地入りし、原城攻めで一番乗りの武功を上げ顕彰されている。


彼に対する信綱の信任は篤く、乱の終結後は天草の実態調査も命じられ、寛永18年(1641年)幕府直轄領(天領)となった際は天草の初代代官に任じられた。

重成は、以前に天草を統治していた寺沢広高堅高親子による圧制により荒廃していた天草を立て直すべく、富岡城の城下に陣屋(役宅)を置いて民政に取り組み、植民を促進して寺沢家が算出していた石高も疑問視し、詳細な再検地を行った結果、公式の石高が四万二千石と異常に高く民衆は重税で圧迫されていたため、石高半減を強く老中の信綱に訴え続けた。

天草諸島の全島を十組八十八の村に区画し、各組に一人ずつ大庄屋(大名主)を、各村には一人ずつ庄屋(名主)を置いて行政の浸透をはかり、外国船の動静を探る遠見番なども設置して、行政機構を整えていった。


キリスト教に救いを求めて破れたことで苦しむ人々の心を癒すため、高名な曹洞宗禅僧で仮名草子(散文)の作家でもある兄・正三の呼び寄せ、「日本人の原点へ帰ろう」と仏教への改宗を勧めていき、更に幕府から三百石を持ってきて、かつてキリシタン大名や煽動された信者たちにより破壊された各地の神社寺院を曹洞宗に限らず次々に復興させていき、早朝に鎮守の森から太鼓の音が響き、夕方には寺の梵鐘が聞こえるようになり、日本の原風景に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻していったという。


上述したように寺沢家の所業による異常な年貢米の減免を願い出た重成だったが、再三の要請にも拘らず聞き届けられなかったため、抗議の意を示して自刃し、それに慌てた幕府によって再検地が行われ、半分以下の全うな石高にまで下げられたと言う伝承が伝わっており、現地では信じられている(熊本県の公式観光サイトにすら載っている)が、郷土史家の間では後世の作り話とされており、重成の死因は病死であったと言うのがそちらでは主流説となっている。ちなみにどちらの場合でも彼が減免を願い出ていたのは本当であり、主流説でも重成の死後に彼の意志を継いで2代目代官となって嘆願を続けた養子の重辰により、任期中の万治2年(1659年)6月に天草の石高半減を実現させている。


民衆が疲弊し土地は焦土と化して荒廃していた天草に善政を敷き、確かな政治手腕で天草復興に大きな貢献をした重成は、領民から名代官として長く追慕される存在となり、天草の郡内には重成を祀った『鈴木神社』が建立され、また「鈴木様」と呼ばれる石塔が各地に立つなど半ば土着信仰化していった。

また、同じく復興に貢献した兄・正三や意志を継いだ養子・重辰も同様に領民から慕われて神社に祀られており、この三人を天草の恩人『鈴木三公』と総称し、神社には三人の銅像が建てられている。


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