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武林唯七の編集履歴

2024-04-25 00:44:43 バージョン

武林唯七

たけばやしただしち

江戸時代の武士。赤穂四十七士の一人。

概要

1672年(寛文12年)生~1703年(元禄16年)没。


諱は隆重。

赤穂藩士渡辺式重の次男。父方祖父は明国杭州武林郡出身の孟二寛(もう・じかん)で、文禄・慶長の役で捕虜として日本に来て渡辺(武林)治庵と名乗った。さらに先祖をたどると春秋戦国時代の思想家孟子へ行きつくと伝わる。


赤穂藩においては中小姓を務め、浅野内匠頭の切腹後は堀部安兵衛らと共に江戸における吉良邸襲撃急進派として活動、討ち入りの際には吉良上野介に止めを刺した事で知られる。


討ち入り後は毛利家の屋敷に預けられ切腹した。


関連タグ

江戸時代 武士

元禄赤穂事件 忠臣蔵

孟子

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