概要
紙芝居は、昭和10年代から30年代前半にかけて、当時の子供たちに人気の娯楽だった。
鞍馬天狗のような時代劇から、黄金バットや墓場鬼太郎(当初は奇太郎)のようなオカルトヒーローまで作品は様々。
紙芝居師は自転車に荷物を積んでそれぞれの担当地区を回り、拍子木を打ったり鐘を鳴らすなどして子供たちを集め、口上で盛り上げつつまず飴を売る。これが観賞チケット代わりで、その売り上げが紙芝居師の収入となる。小遣いを握り締めて集まった子供たちは、買ったばかりの飴をなめつつ、ドキドキハラハラの物語を堪能した。
演者(紙芝居師)は一人でナレーションからすべての登場人物まで演じ分け、声の調子や小道具を使って物語の雰囲気を盛り上げる。また場面転換にもテクニックを持ち、絵全体を動かしたり次の場面をチラチラ見せたりと演出にも工夫を凝らした。物語の最後には次回への引きが用意されており、子供たちの興味を引っ張る構成となっていた。
全国の紙芝居業界は地方ごとに組織化されていた。まとめ役は作家から紙芝居を買い上げて、配下の紙芝居師たちに差配し、紙芝居師たちは売り上げから規定の上納金を納めるというシステムだった。
紙芝居師には、初期にはトーキー映画の隆盛で職を失った活弁士も多く見られた。第二次世界大戦後には敗戦の影響で行き場を失った失業者が、日銭を稼げる仕事として選ぶ例も少なくなかったとされている。
白土三平や水木しげるなど、そのキャリアを紙芝居作家としてスタートさせた漫画家も多かった。しかし昭和33年11月に、明仁皇太子殿下と正田美智子さん(当時)のご婚約と翌年のご結婚が発表されると、陰ながらお二人を祝福したい、パレードの中継が見たいという動機から、テレビが一気に日本中の家庭に普及。TV番組に人気を奪われた紙芝居業界は、急速な衰退期を迎えることになる。
やがて紙芝居作家は貸本漫画へ、次には漫画雑誌へと活躍の場を移していった。
紙芝居はその性質上保存に弱く、戦前に上演されていた作品の多くが、太平洋戦争による空襲等で失われるという憂き目にあっている。また、物語(シナリオ)は基本的に口伝であり、紙芝居自体に書かれているわけではなかった。そのため一つの作品にも様々なストーリーや設定のバリエーションが生まれたが、紙芝居業の衰退とともにこれもその多くが散逸してしまった。
21世紀に入って、文化としての紙芝居が見直され、これらの失われた作品を草の根レベルで捜索・発掘しようという運動が行われ、展示会なども行われている。
その後
紙芝居そのものは児童向けの知育玩具として生き残った。童話やアニメのストーリーが描かれたものに、BGMや音声、絵を抜き取るタイミングを知らせるSEが納められたソノシート(塩ビ製でぺらぺらした極薄手のレコード)が付属していて、これが紙芝居師の代わりを果たすようになっていた。
現代でも紙芝居は幼稚園などで教材として使用され、読み聞かせが行われている。読み聞かせに使われる紙芝居の場合、上述のような付属の音楽媒体を使うのではなく、絵の裏に直に台詞やナレーションが書かれており(表で見せている絵は一番前にあり、裏の記述は一番後にあるため、絵と記述は1枚ずつズレている。具体的に言えば終幕の絵の後ろに冒頭の台詞等が書かれている)、演者(幼稚園教諭・保育士や保護者の場合が多い)がこれを読み上げるものが大半である。また、文化としての紙芝居を保存したいという動機から、個人レベルで紙芝居師として活動を行う人もいる。
「包丁人味平」などの作品で知られる漫画家のビッグ錠は、幼少時に体験した大阪空襲をテーマとした自作漫画「風のゴンタ」を紙芝居用に編集し、読み聞かせの活動を行っている。
紙芝居の作り方
ほとんどはフリップ式の一枚絵を必要な枚数だけ描いて額に収め、それ場面展開に応じて切り替えていく。
しかし一部では絵巻物式も存在しており、専用の巻き取り器に取り付け、物語の進行に応じて絵巻を回転させていく。
以下は両形式に通じる作成法の一例である。
- 最初に筋を練り、構成を考える。
- 横に抜く動きを計算して絵を配置する
- 絵に変化をつける
- 遠目でもわかるように輪郭を墨ではっきり
- 色鉛筆では弱いので、絵の具で彩色する
- 擬音や動きの線は書き込まず、語り手の演技や絵自体を動かす事で伝える
- 実際に演じて観客の反応を見て、必要なら構成や絵を練り直す
比喩表現
選択肢の少ないノベルゲームは、しばしば紙芝居と揶揄される。ジャンル名として「電脳紙芝居」などを名乗るゲームも存在する。
動きの少ないアニメを揶揄する言葉としても使用される。