踏めば助かるのに
ふめばたすかるのに
概要 を書けばいいのに
中学歴史の資料集『学び考える歴史』に登場したロボットが放った問題発言のひとつ。
意図としては、江戸時代の隠れキリシタンたちが絵踏み(対象に十字架やキリスト像、マリア像などが描かれた板を踏ませ、キリスト教徒かどうかを見分けること)を踏めずに処刑されたエピソードに対する疑問。
確かに生き残ることだけを考えればその通りではあるのだが、比較的平和とはいえ江戸時代は現代よりも圧倒的に死が身近であり、また日々の暮らしも現代とは比較にならないくらい厳しかった時代である。そのような時代において、宗教は”生きる支え”であるとともに”死後のことまでも保証してくれる存在”(※本来の宗教はそういうもの)だったことは忘れてはいけない。
「仏教では駄目なの?」
補足すると、絵踏みで隠れキリシタン全員を摘発できた訳ではなく、ロボカスの言う通り「踏めば助かるのに」として処刑を免れた人も居た模様。
事実、信者の多かった長崎では明治時代まで何度か摘発が行われたという記録があり、これは当時の信者達が絵踏みをクリアしていたことを示している。開国によって長崎に宣教師がやって来たことを知った信者達がその宣教師のもとを訪れ、隠れ信者であることをを告白したという逸話もある。
「摘発のおそれがあるのに信仰を続けるの?」
なお絵踏みにそれなりの効果があったのは、日本に広まったキリスト教がカトリック派で、信仰にキリストや聖人の像・絵画を用いる伝統があったためである。より厳格な偶像崇拝禁止を掲げるプロテスタント派は聖書以外の現物を神聖視しないため、もし隠れキリシタン達がプロテスタントだったら普通に絵を踏んでいただろう。事実、出島のオランダ人やラナルド・マクドナルドのようなプロテスタントの漂流者は「馬鹿馬鹿しい」として絵を踏んだとされる。
「プロテスタントに改宗にすればいいのに」
映画になってるのに
『沈黙』という長崎の隠れキリシタン弾圧を題材にした映画があり、まさにこの「踏めば助かるのに」を体現した内容となっている。
主人公のポルトガル宣教師二人は日本に行った自分達の師が棄教したという噂を聞き、その真偽を確かめるべく来日するが、不運にも弾圧を指揮していた奉行に捕まってしまう。宣教師を処刑するとむしろ信者達の結束を促すと知っていた奉行は、それを逆手に取って「棄教すれば信者を助ける」と主人公に迫るが...
「日本に来てまでして、確かめたかったの?」
関連タグ なのかな?
死ねば助かるのに:よく似た響きのセリフ…なのだが、絵踏みを拒否して殺された側からすると、文字通り「死ねば(死後の世界で)助かるのに」ということになる。
生き恥:踏んで助かった場合の末路のひとつ。