藤原鎌足
ふじわらのかまたり
概要
皇極天皇の時代、蘇我氏の専横が頂点に達していた。
そのなかで日本の将来を憂えた中大兄皇子と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が知合い、思いを一つにした。
皇極天皇4年(西暦645年)6月、中大兄皇子と鎌子は蘇我入鹿の暗殺を企て、入鹿をだまして大極殿に呼び出した。
そして、蘇我倉山田石川麻呂がにせの「三韓の上表文」を読んでいるときに、中大兄皇子と臣下の者が入鹿に襲いかかり、斬り殺した。
こうして、追いつめられた蘇我蝦夷は自害し、蘇我氏本宗家は滅んだ。
皇極天皇の後を承けて孝徳天皇が即位されたが、この大化の改新の時代、政治の中心に立ち国政の改革を行ったのが、皇太子となられた中大兄皇子と、その腹心で内臣(うちつおみ)となった中臣鎌足のお二人であった。
孝徳天皇が崩御されたあと、皇極天皇が重祚された(斉明天皇)。
斉明天皇が崩御されたあと、中大兄皇子は「称制」を執り続けられたが、天智天皇7年(西暦668年)1月、皇子は正式に即位された(天智天皇)。
天智天皇8年10月、腹心として常に天智天皇をお支えしてきた中臣鎌足が病のため亡くなった。
享年56。
天皇は鎌足を病床に見舞われ、「望むことがあれば何でもいうがよい」と仰せられた。
すると鎌足は、「私の葬儀は簡素にしていただきたい」とお答え申上げたという。
天皇は、亡き鎌足に「大織冠」(だいしきのこうぶり)と大臣の位をお授けになった。
大織冠は「たいしょくかん」ともいい、最高の冠位のことである。
古代、この官位を授けられたのは鎌足ただ一人であり、ゆえに鎌足の異名ともなった。
天皇はまた、鎌足に「藤原」の姓(うじ)をたまわった。
これが藤原氏の起源であり、のちに鎌足の子孫が永きにわたり栄華を誇ることになる。