デビュー~4歳時代(現表記3歳)
1990年3月26日に誕生。
父はカナダ生まれのナグルスキー、母タケノファルコン、母の父がフィリップオブスペインという血統だった。
1992年に、美浦の中野隆良厩舎に入厩。
翌年、中山競馬場の新馬戦でデビューした。
この新馬戦は9馬身差で圧勝し、条件戦の朱竹賞へ。ここでは半馬身差で2着と惜敗するも、続くカトレア賞では3馬身差の快勝。
初重賞として、桜花賞の前哨戦であるGⅢフラワーカップへ参戦し、見事に1着。
ちなみに、このフラワーカップが初めての芝レースであった。
その後桜花賞に出走するも5着。次走の優駿牝馬(オークス)でも6着と良いとこ無しで春シーズンを終えた。
秋になり、ホクトベガはGⅢクイーンカップへ挑戦するも2着。続くGⅡローズステークスでも3着と勝つことは出来なかったものの、GⅠエリザベス女王杯への出走権を手にする事はできた。
エリザベス女王杯
ローズステークスでの優先出走権を手に、ホクトベガはエリザベス女王杯へ出走。
この年は、2冠牝馬ベガの牝馬3冠達成なるか(この時はまだ秋華賞が存在しなかったため、牝馬3冠の最終戦はエリザベス女王杯だった。)が話題となっていた。
ホクトベガは、それまでの成績が振るわなかったためか、単勝オッズ30.4倍の低人気。
対するベガは、単勝オッズ3.7倍の2番人気だった。
ところが、このレースにおいてホクトベガは最内を突っ切り優勝。
牝馬3冠が期待されていたベガに3馬身半つけての勝利であった。
この時、実況の馬場鉄志アナの叫んだ「ベガはベガでもホクトベガ!!」のフレーズは、競馬ファンの間ではあまりにも有名である。
悲願のGⅠ制覇を遂げたホクトベガだったが、次走のターコイズステークスでは、以前のクイーンステークスでも後塵を拝したユキノビジンに敗れ3着に終わった。
古馬時代
古馬となったホクトベガの年明け初戦は、ダート重賞のGⅢ平安ステークス。
2番人気に押されたものの、10着と大敗してしまう。
その後、GⅢ中山牝馬ステークスや、GⅡ毎日王冠などに出走するもことごとく敗退。
結局5歳時は、オープン特別の札幌日経オープン、及びGⅢ札幌記念の2戦を制しただけで終わってしまった。
5歳時の成績は9戦2勝(内重賞1勝)、GⅠ馬にしてはトホホな成績であった。
この頃は、あまりにも成績が伸び悩んでいたため障害競走への転向も検討されており、実際に障害飛越の調教が行われてもいた。GⅠ馬なのに。
しかし、ホクトベガは6歳時にGⅡアメリカジョッキークラブカップで2着と好走したため、障害への転向は白紙にされた。
その後もGⅡ中山記念や、GⅠ安田記念に挑戦するも見事に敗退する。
しかし、そんなホクトベガもついに天職(?)を発見するに至るのであった。
砂の女王、戴冠
この年から、川崎競馬場で行われる伝統の牝馬限定重賞エンプレス杯が、中央競馬との交流重賞競走に指定され、JRA所属馬も出走が可能になった。
ホクトベガはここに出走したのである。
雨の降りしきる不良馬場の中行われたこのレース、ホクトベガは1頭だけ全くレベルの違う走りを見せつけた。
結果、2着のアクアライデンに18馬身差と言うとんでもない大差をつけ完勝。
「砂の女王」が、今ここに即位したのであった。
その後のホクトベガは、何故かまた芝レースに戻り、当たり前のように敗退を繰り返す。
GⅢ福島記念で2着と好走するも、6歳時代はエンプレス杯の1勝のみで幕を閉じた。
7歳~砂の女王、ここにあり
7歳となったホクトベガは、地方GⅠ川崎記念に出走した。
この年の川崎記念は、新設されたばかりの世界ダート王決定戦ドバイワールドカップに挑戦する日本のダート王者ライブリマウントの壮行レースのような扱いであり、「打倒ライブリマウント」を掲げて中央のトーヨーリファール等も出走するなど、かなりの盛り上がりを見せていた。
そんなレースで、ホクトベガは大爆走。
2着のライフアサヒに5馬身差をつけての圧勝であった。
その後も、中央のGⅡフェブラリーステークス(現在はGⅠ)や、ダート王決定戦の地方GⅠ帝王賞等に出走し、サクサク勝利。
盛岡の南部杯までで、交流重賞含めダート重賞8連勝という怒涛の快進撃を見せた。
あまりの勝ちっぷりに、盛岡のマイルCS南部杯では「女王様とお呼び!!」という迷実況まで飛び出した。
途中エリザベス女王杯や有馬記念などで敗退するも、未だダートでは負けなし。
翌年の川崎記念も勝利し、ダート重賞10連勝という大記録を達成したのであった。
ドバイ遠征、そして
1998年、ホクトベガも8歳となり、陣営はいよいよもってホクトベガを引退させる決断をした。
引退レースは、第2回ドバイワールドカップ。
前述の通り、ドバイワールドカップはダート馬の世界王者決定戦とでもいうべき競走。
「砂の女王」ホクトベガの最後のレースには絶好の舞台であった。
その後はヨーロッパへ渡り、欧州の一流種牡馬たちと交配させる計画も立てられていた。
中継などされていなかったこのレース。
日本のファンは、ホクトベガの勝利の知らせを今か今かと待ち望んでいた。
しかし、ここでホクトベガを突然の不幸が襲った。
レース中、ホクトベガは先行していたルソーに接触し、転倒。
左前腕節部複雑骨折を発症し、予後不良の診断が下されてしまったのである。
ホクトベガは、そのままドバイで安楽死の処置を受ける。
砂の女王は、遠きドバイの地で散った。
この事故の明確な原因は、未だにわかっていない。
騎乗していた横山典弘は、「自分の強引な騎乗がこんな事態を引き起こしてしまった」と悔やんでいた。
先行していたルソーが進路妨害を行っていたとも言われている。
いずれにせよ、いくつもの不運が重なって起きてしまった事故である事は間違いない。
生涯獲得賞金は、8億8812万6000円。
2009年にウオッカが記録を塗り替えるまで、牝馬の獲得賞金では歴代最高額であった。
日本馬によるドバイワールドカップ制覇は、ホクトベガの死から14年後の2011年、ヴィクトワールピサが成し遂げた。
奇しくも、ヴィクトワールピサが勝利した3月26日は、ホクトベガの誕生日であった。
ゴールイン後のその姿で、ホクトベガを思い出した競馬ファンも多いのではないだろうか。
余談
・ホクトベガを扱っていた中野調教師がホクトベガの強さについて問われた際答えた
「彼女はモナリザ。その強さは永遠の秘密です。」
という一言は、ホクトベガを象徴する言葉として語り継がれている。
・ホクトベガが勝利したエリザベス女王杯では、生産者の酒井氏は競馬場へ行かなかった。
まさか勝つ事は無いだろうと思っていたためであり、その後「テレビの前でホクトベガに申し訳なくなった」と話している。
・ダート路線での大活躍の一因には、一時期行われていた障害競走用の調教が功を奏したとも言われている。
障害飛越の調教を重ねるにつれて足腰が鍛えられ、よりダート向きの馬体になったという説である。
2年前にメジロパーマーが障害競走から平地GⅠを勝利した事も手伝い、現在では平場競走専門の馬にも障害調教が行われる事がある。
・ホクトベガの遺体は、検疫の関係で日本に持ち帰る事が出来なかった。
そのため、故郷の酒井牧場にある墓には、彼女のタテガミのみが埋まっている。
生涯成績
4歳
4歳新馬 1着
朱竹賞 2着
カトレア賞 1着
フラワーカップ(GⅢ) 1着
桜花賞(GⅠ) 5着
優駿牝馬(GⅠ) 6着
クイーンステークス(GⅢ) 2着
ローズステークス(GⅡ) 3着
エリザベス女王杯(GⅠ) 1着
ターコイズステークス 3着
5歳
平安ステークス(GⅢ) 10着
中山牝馬ステークス(GⅢ) 4着
京王杯スプリングカップ(GⅡ) 5着
札幌日経オープン 1着
札幌記念(GⅢ) 1着
函館記念(GⅢ) 3着
毎日王冠(GⅡ) 9着
富士ステークス 6着
阪神牝馬特別(GⅡ) 5着
6歳
アメリカジョッキークラブカップ(GⅡ) 2着
中山牝馬ステークス(GⅢ) 2着
中山記念(GⅡ) 8着
京王杯スプリングカップ(GⅡ) 3着
安田記念(GⅠ) 5着
エンプレス杯(交流GⅠ) 1着
函館記念(GⅢ) 11着
毎日王冠(GⅡ) 7着
天皇賞(秋)(GⅠ) 16着
福島記念(GⅢ) 2着
阪神牝馬特別(GⅡ) 5着
7歳
川崎記念(交流GⅠ) 1着
フェブラリーステークス(GⅡ) 1着
ダイオライト記念(交流GⅠ) 1着
群馬記念(交流競走) 1着
帝王賞(交流GⅠ) 1着
エンプレス杯(交流GⅡ) 1着
マイルチャンピオンシップ南部杯(交流競走) 1着
エリザベス女王杯(GⅠ) 4着
浦和記念(交流GⅠ) 1着
有馬記念(GⅠ) 9着
8歳
川崎記念(交流GⅠ) 1着
ドバイワールドカップ 競争中止※予後不良