高句麗
こうくり
朝鮮の歴史における三国時代に鼎立した国の一つ。
歴史
紀元前1世紀頃の神話の時代に作られ、7世紀まで中国東北部(旧満州)から朝鮮半島北部を支配した。
当初は中国王朝に圧迫されたが、徐々に勢力を拡大。4世紀には楽浪郡を滅ぼした。
広開土王の時代に全盛期を迎え、新羅や百済を追い込み、さらにそれを支援した倭国(日本)と百済連合軍を撃破した(これを記したのが広開土王碑)。
しかし、新羅が徐々に台頭、圧迫されるようになる。
7世紀には隋や唐にたびたび攻められたが、これを撃退。特に前者は、名将・乙支文徳の堰で塞き止めた川の水で隋軍を一網打尽にした「薩水の大捷」のエピソードで知られ、この失敗が隋滅亡の一因となった。
7世紀後半に淵蓋蘇文による権力集中が行われた。
前述の通り、唐の脅威をたびたび撃退したが、百済滅亡後の668年、唐・新羅の連合軍に遂に滅ぼされた。
倭にも高句麗の人々が渡った。紙や墨などを伝えた仏教僧の曇徴、政治的なブレーンとして活躍した、同じく僧の慧慈などが知られる。