十河一存
そごうかずまさ
生涯
幼い頃に断絶の危機にあった讃岐の名族十河氏を継承した。
讃岐における三好氏の勢力拡大、長慶の畿内支配、
実休の阿波支配に貢献し、数多く畿内や阿波に出陣。
きっかけとなった摂津、江口の戦いでは先陣となって活躍し、
このまま晴元を追撃し討ち果たそうと長慶に強く進言したと言われている。
実休が阿波守護の細川持隆を阿波の見性寺で殺害した
勝瑞騒動にも一存が関わっていたとされている。
長慶の和泉方面の支配において一存は岸和田城を与えられ、
和泉守りを固めつつ紀伊方面にを目を向けていた。
永禄3年(1560年)春、病を患った一存が有馬温泉へ
湯治する途中で落馬したことが原因により急死したと言われている。
人物
鬼十河の異名
一存は讃岐の国人、寒川氏との合戦中に腕を負傷したが
一旦、陣地に戻り傷口に塩を塗り込み消毒し、藤のツルを
巻いてまた敵陣へ向かい、勝利したという話から「鬼十河」や
「夜叉十河」称され恐れられという。
また、兜と一緒に装着する顔面用の黒い面兜は
一存の顔がモデルとなったという説もある。
十河額の流行
一存は月代を四角く大きく剃りあげる
変わった髪型を考案したとされ、
いつの頃からか「そごうびたい」と言われるようになる。
強さの象徴として家臣をはじめ
周囲の武将たちが一存の髪型を真似するようになったという。
実際のところは一存は肌が弱く、兜で頭が蒸れるのを防ぐためだったらしい。
徳川家光の時代にも十河額は流行した。
急死の真相
当時から一存の急死について、長慶の重臣であった松永久秀が
関与しているいう(毒殺や暗殺など)噂があった。
これは一存が新参の家臣であった
久秀を日頃からあまり良く思っていなかったと
言われたためである。
小説等でよく描かれるが一存が愛馬に乗り
有馬温泉へ向かう直前に
久秀から「有馬権現様は馬を嫌っておられるので
馬に乗って行かない方がよろしいでしょう」と諌められたが
一存は久秀をひどく嫌っていたため、これを無視した。
しかし有馬の途中で突然馬が暴れ出し落馬したという話である。