赤川元保(史実)
赤川元保(生年不詳 - 1567年3月/永禄10年)は、安芸国の毛利氏に使えた家臣。
毛利元就が家督相続した際に、起請文に署名した宿老15人の中の一人として、兄とともに元就を支えた。
五奉行の一人として毛利家の政治を担ったが、長男・隆元派のため元就の心象はあまりよくなかったらしい。(毛利家文書より)
永禄6年、出雲遠征に向かう隆元に元保は従っていた。同年8月3日、和智誠春の館で饗応を受け、翌日隆元は急死。
知らせを受けた元就は大いに落胆し、三男隆景が士気に関わると危惧するほどだった。
息子を失った元就はこれ以降、早く隆元の元へ逝きたいと呟くようになる。
なお、隆元の死を毒殺と思い込んだ元就は後日、付き従っていた赤川元保に隆元の死について問いただそうとしたが、元保は元就の居る所まで登城せず、ますますその死に元保が関連したと思いこんだ。
1567年(永禄10年)3月3日に元保は元就の命で自害した。(兄・養子も急襲され討ち死)
しかし、皮肉にも赤川元保が自害した後に、元保は隆元が和智氏の招きに応じないように再三止めたことを知り、元就は激しく後悔した。
せめてもの罪滅ぼしにと、同年11月29日に赤川家の一族から二郎左衛門に家督を継がせ、赤川家を再興させた。
なお隆元の死は鮎による食中毒とされるが、鮎で死ぬほどの食中毒は報告例がない。よって、未だに毒殺なのかどうかはっきりとしていない。
また、元保が隆元の急死に関して弁明しなかったのは無骨な元保らしく、主君に殉死するつもりがあったためと思われる。(兄達は急襲を予期していたので、あらかじめ覚悟するよう伝えていた可能性がある。)
関連タグ
架空キャラとしての赤川元保
赤川元保(戦国BASARA弐)
(右の男性)
CV:興津和幸
概要
毛利元就に仕える側近武将。元就とは違い温和な物腰だが、その正体は豊臣側の間者であった。
日輪の完成後、毒を盛った酒で元就の謀殺を謀るも、豊臣の間者であることを見抜いていた元就にその場で斬り殺された。
なお、豊臣の間者とは言えど家臣としては優秀であったようで、殺害された後も元就からはそれなりの称賛の言葉を受けており、「捨て駒界のカリスマ」として捨て駒一同から一目を置かれている。