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概要

1993年10月28日ドーハで行われた1994年のFIFAワールドカップアメリカ大会予選で日本代表が勝利なら出場が決まるという局面でイラクに終了間際に同点に追いつかれ韓国との得失点差で同大会の出場権を逃すこととなった。


詳細

イラク戦までの経過

日本は1990年のメキシコ大会までワールドカップに出場したことがなかったが、1993年にJリーグが開幕するのを機にワールドカップを目指すため本格的に強化を開始。それが功を奏し、1992年に広島で開催されたアジアカップで優勝。ワールドカップ予選1次リーグでは7勝1分得失差26という圧倒的な力で突破し、「日本はアジア最強、1994年のワールドカップ本大会は確実」と浮かれ切った状態であった。


しかし当時は最終予選から本大会に進出できるのは6ヶ国・地域中わずか2ヶ国・地域と非常に狭き門で、さらにメンバーは韓国サウジアラビアイラン北朝鮮そしてイラクと現在でも接戦になる相手ばかりでった。実際最終予選が始まると初戦のサウジアラビアには1-1で引き分け、イランには1-2で敗北するなど1分1敗と苦しい状況に陥ってしまう。しかし第3戦の北朝鮮には3-0で勝利するとこれまで幾度どなく本戦進出を阻まれてきた韓国には1-0と勝利。この時点で首位に立ち、日本が勝利すれば無条件で、日本が引き分けてもサウジアラビアまたは韓国のどちらかが引き分け以下であれば得失点差に関係なく本戦出場という圧倒的有利な状況であった。


最終戦ロスタイムまでの経過

そして最終予選の最終戦、開始5分に三浦知良がヘディングでゴールを決め1-0とリードし、そのまま前半を終了する。しかし後半になるとイラクは猛攻を仕掛け、55分に同点に追いつかれてしまう。他会場ではサウジアラビアと韓国がリードしており、このままでは本戦出場を逃してしまう。しかし69分に中山雅史がオフサイドギリギリのラインを突破しゴールを決め2-1と再びリード。日本中が歓喜しあとは時間が過ぎるのを待つだけであった。


しかし日本はなぜかボールをキープして時間を潰すことはせず、突進して3点目を狙いに行く(先述の通り得失点差は関係ない)。その結果味方に誰もいないところにパスをする、前がイラクの選手で固まっていて後ろに日本の選手がパスを要求しても前にパスをしようとして相手に奪われるなど、今思えば「日本のプレーがおかしい」状態であったが、まだ試合は終わっていないのに皆が浮かれ切って暴走状態となっており、唯一事態の深刻さに気付いていた監督のハンス・オフトが怒鳴りながら落ち着かせようとするも耳に入らない状態であった。


そして悲劇へ

そうするうちに後半ロスタイム。日本ゴール側のコーナーキックとなり、日本の守備陣はゴール前に固まってセンタリングに備える形となった。それを見たイラクの選手はセンタリングせずにフリー状態の味方へショートパス。不意を突かれた日本は三浦が対応するもかわされ、さらに他の守備陣の集中がそちらへ向かったところへセンタリングすると別のイラクの選手が駆け込んできてゴールへ向けてヘディング。浮き上がったボールはそのままゴールに吸い込まれ同点に追いつかれてしまった。


その後ワンプレーだけ行われて試合終了。サウジアラビアと韓国が勝利したため日本は3位となり、本大会出場を逃してしまった。


悲劇の後

Jリーグ開幕元年の中サッカーへの注目度が以前の比ではなく高まっていたところに起きた結果のため、日本中が悲壮感に満ち溢れた。メディアは同点に追いつかれた時にベンチに下がっていた中山が「なんだよもう!」と叫びながら倒れ込むシーンや、試合終了後ラモス瑠偉がピッチにへたり込んで放心状態になっているシーンは繰り返し放送するなど悲劇さを強調していた。


一方イラクであるが、ハーフタイム中に当時イラクサッカー協会の会長であったサダム・フセインの息子ウダイがアポなしでロッカー室に押しかけて「(湾岸戦争アメリカの味方をしていた)日本に負けたら鞭打ちとタコ部屋労働だからな」と述べ、それによって最終予選敗退が確実だったイラクの選手は血相を変えて猛攻を仕掛けたとされている。引き分けになったことで鞭打ちを免れ、試合終了後イラクの選手が大喜びだったのはそのためとされている(スポーツ選手に対する人権侵害案件であることは言うまでもない)。


3週間後、ヨーロッパ最終予選でフランス代表が後半ロスタイムで逆転負けを喫し、本戦出場を逃す事態に陥っている。こちらは日本の「ドーハの悲劇」に対して「パリの悲劇」と言われている。


本大会で出場を逃した日本であるが、翌1998年のフランス大会で悲願の本大会出場を果たしているジョホールバルの歓喜)。その後も日本は本戦出場を続けているが、日本サッカー史におけるターニングポイントの一つとして未だに語られ続けており、この試合に参加していた代表メンバーは「ドーハ世代」と呼ばれることも多い。


20年経った2013年6月11日2014年ブラジル大会出場をかけたアジア地区最終予選で日本イラクドーハで戦った。この時既にW杯出場を決めていた日本に対してイラクは最下位に落ちており、勝たなければ出場できない状況であった。だが、イラクは後半44分で日本に1点入れられ敗退、出場権を逃した。よって、この試合はイラクにとって「ドーハの悲劇」となった。


なお、日本と入れ替わる形で奇跡の本大会出場を決めた韓国は「ドーハの奇跡」として歓喜に包まれた。また、31年後の2024年にドーハで開催されたAFC U23アジアカップ兼2024年パリ五輪最終予選でもグループステージで韓国は1-0で日本に勝利し、ここ最近韓国は日本に勝てていなかったこともあり、韓国にとってドーハは相性のいい場所とされていた(尤もどちらも決勝トーナメント進出を決めており、控え選手を出している状況であったが)。しかし決勝トーナメント1回戦で韓国はインドネシアにPK戦負けを喫し、ソウルオリンピック以来続いていたオリンピック出場を逃してしまった。この状況に韓国メディアは「ドーハの悲劇」(または「ドーハ惨事」)と報じている。


日本代表登録メンバー

※選手名は当時。

背番号選手名所属チーム名(在籍当時)備考(2022年現在の所属など)

ゴールキーパー

ディフェンダー

2大嶽直人横浜フリューゲルス現:鹿児島ユナイテッドFC監督
3勝矢寿延横浜マリノス現:セレッソ大阪サッカースクール スクールマスター
4堀池巧清水エスパルス現:順天堂大学スポーツ健康科学部准教授および蹴球部監督
5(キャプテン)柱谷哲二ヴェルディ川崎
6都並敏史ヴェルディ川崎現:ブリオベッカ浦安監督
7井原正巳横浜マリノス現:柏レイソルヘッドコーチ
21三浦泰年清水エスパルス三浦知良の実兄。現:鈴鹿ポイントゲッターズ代表取締役GM・監督
22大野俊三鹿島アントラーズ

ミッドフィルダー

8福田正博浦和レッズ現:サッカー解説者
10ラモス瑠偉ヴェルディ川崎現:東京ヴェルディのチームダイレクター
14北澤豪ヴェルディ川崎現:タレント、日本サッカー協会理事、日本障がい者サッカー連盟会長
15吉田光範ジュビロ磐田現:FC刈谷のテクニカルディレクター
17森保一サンフレッチェ広島現:日本代表監督
18澤登正朗清水エスパルス現:清水エスパルスユースの監督

フォワード

9武田修宏ヴェルディ川崎現:タレント
11三浦知良ヴェルディ川崎現役、現:横浜FC⇒鈴鹿ポイントゲッターズ
12長谷川健太清水エスパルス現:FC東京監督
13黒崎比差支鹿島アントラーズ本名:黒崎久志、現:中国超級リーグ・山東泰山ヘッドコーチ
16中山雅史ジュビロ磐田現:アスルクラロ沼津監督
20高木琢也サンフレッチェ広島
監督ハンス・オフト
コーチ清雲栄純現:法政大学スポーツ健康学部教授、ジェフユナイテッド市原・千葉のトータルアドバイザー
GKコーチディド・ハーフナー

関連タグ

FIFAワールドカップ サッカー サッカー日本代表


イラク 人権侵害


だが……



















歴史は塗り替えられるためにある

ドーハの歓喜

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