曖昧さ回避
三遊亭円楽(6代)
6代目三遊亭円楽は、日本の芸人。落語家、タレント、大学・専門学校講師。(1950~2022)
三遊亭圓楽は本来、「圓」(えん)の字が旧字体となっているが、常用漢字外であり、また「『圓楽』の名前は5代目が大きくしたものだから」という本人の意向で、6代目はテレビなどのメディアでは「円」の字を最晩年まで使っていた。
愛称は楽太郎時代からの「楽さん」。5代目からは「楽太」、こん平からは「楽ちゃん」とも呼ばれ、歌丸からは「悪太郎」呼ばわりされたりしている。
経歴
1950年2月8日東京都墨田区生まれ。本名 會泰通(あい やすみち)。
息子は声優兼落語家の会一太郎(落語家としての名前は三遊亭一太郎)で、一太郎の妻である佐々木愛は義理の娘にあたる。
テレビ番組「笑点」の出演者の一人としても有名(なお、加入時の色紋付は師匠が着用していた薄紫の着物を引き継いだ。)。大師匠の6代目三遊亭圓生から「三遊亭楽太郎」の高座名を与えられデビュー当時から長らく名乗っていたが、引退した師匠(5代目三遊亭圓楽)の名跡を還暦になった2010年2月に襲名し、以降「6代目三遊亭円楽」を名乗った。
当初は師匠との「W圓楽」揃い踏みでの襲名になるはずだったが、2009年10月29日に5代目が死去して叶わぬ夢となってしまった。
なお「楽太郎」としての知名度が高く、また師匠と区別する為襲名後は自己紹介する際に「楽太郎の円楽」と名乗る事もあった。
「暴れん坊将軍」や「ひらり」など俳優としてテレビドラマに出演したこともあった。
2007年以降、毎年10月末から11月頭ごろに福岡市で一門や東西の枠を越えて落語家が集結し、高座を繰り広げる「博多・天神落語まつり」のプロデューサーとしても活動し、落語ファン層の拡大とともに、落語界の交流や融和に心血を注いでいた。
最晩年は体調不良が続いていた。2018年9月に初期の肺がん(※2019年に再発したが治療で回復したこと、また過去に初期の大腸がんが見つかり治療していたことも公表している)が見つかり手術を受け、2019年7月に脳腫瘍が見つかり、検査・治療のため入院し、いずれも数週間で高座に復帰していた。
2022年1月に脳梗塞で倒れ、ある程度持ち直したものの2月にリハビリと肺がんの経過観察のため、夏頃までの長期休養に入ることを発表した。同年8月11日に辛くも復帰を果たすが、左半身に重度の麻痺が残った上、脳梗塞の後遺症である高次脳機能障害として短期記憶障害があることを告白している。8月26日に息苦しさを覚え病院を受診したところ軽度の肺炎であるとの診断を受け、同月30日に予定されていた独演会が中止となった。
9月30日、肺炎の症状が快方に向かった為に中断していた肺がんの治療を再開した矢先に容態が急変して帰らぬ人となった。享年73(満72歳没)。
奇しくも先代の師匠と同じように脳梗塞で倒れて笑点を休養、肺がんで死去という末路を辿ってしまった。
これにより、1982年の3代目司会者三波伸介以来となる笑点出演中に死去したメンバーとなってしまった。(ただし、円楽の場合は休養中であった。)
『笑点』での立場
「大喜利」ではインテリ、腹黒く嫌味なキャラクターとして位置づけられており、政治や社会問題に対する痛烈な風刺を効かせた回答をすることが多い反面、イジられることもある。
インテリキャラとしても回答するが、長い薀蓄を述べるため、途中で切られてしまうことがあった。
他方で、自分の答えが単純なダジャレだったりする場合に、笑ってごまかしながら答えることもあった。また上述の一太郎をはじめとした親族をネタにする、あるいはされることは(本家大喜利では)皆無に等しかった。
例:「今日は赤ちゃんをたかいたかーいしたら喜んでくれた。(歌丸「(妻に扮して)パパありがと。」)そういえば今夜、歌丸が、他界、他界したw 」→歌丸「言うのは構わないですよ。言うのは我慢しますよ。あの野郎、笑いながら言いやがって!山田君!(1枚)持って行きなさい!」
先代の三遊亭圓楽が司会者になって以降、司会者や他メンバーへのゴマすりや悪口を言う腹黒ネタで人気を博し、桂歌丸と罵倒合戦を繰り広げていた。
林家木久扇に次ぐ古参メンバーでありながらも、林家たい平がメンバー入りするまでは(古今亭朝次、後の7代目桂才賀が出演していた時期を除いて)最年少だった。ちなみに、彼の加入前は木久蔵(現・木久扇)がインテリキャラであり、木久蔵が「与太郎」(いわゆるボケ)キャラにスライドする形で現在の立ち位置が固まった。
なお、歌丸卒業によって「次期大喜利司会は彼ではないのか?」という予想が多かったが、実際は春風亭昇太が就任となった。それを逆手に取り、円楽は最晩年まで司会の座を狙うというネタに走ることがあった。
なお、別の番組で本人が語ったところによると、司会者にならなかった理由は、自分は回答者でないと面白くない、或いは魅力がないというもの。
芸人、噺家としての面白さを評価されたが故の回答者据え置きなので、実は大いに納得していたらしい。
2018年4月1日の放送では念願の司会に就任し、代わって春風亭昇太が円楽の席である5枠に。その日は昇太へ座布団をあげまくったため、放送終了時点で9枚に達した。なおこの日は4月馬鹿であり、翌週は元通り。ただ円楽の座布団は9枚でスタートしたが、どんなに良い答えを言っても座布団をあげなかったため結局10枚は出なかった。しかし、それとは対照的に、2019年8月18日の放送では、脳腫瘍により、屈辱の休演を余儀なくされ、代わって円楽の席は空席に(9月8日は昇太の直弟子である春風亭昇也が、9月15日は立川晴の輔が円楽の席に座っている)。その休演後初回は2問目で座布団運びの山田が解答に参加したのちに勝手に円楽の席に座ったが、すぐにたい平によって強制退場させられた。なお、8月25日の『24時間テレビ』及び10月6日放送分からは晴れて復帰し、元通り。
同様の企画は2021年5月9日の放送でも行っており、またこの時は円楽の提案によりさらに29年ぶりとなる席替えも行われた。この時の経験が活きたのか、2代目三平に代わって桂宮治が加入した2022年1月23日の放送より実質30年ぶりとなる席替えが実施された(なお小遊三のみ変わらず)が、同年1月30日の放送を最後に病気による長期離脱したのちに9月30日逝去し、結局その新席順では2回しか座れず、2月13日より、レギュラー大喜利において、様々な落語家を中心としたゲストを週替わり(時々、2週連続もしくは特別企画で不在になることもある)で呼ぶようになった。特に亡くなる約1ヶ月前の8月28日の24時間テレビ内のレギュラー大喜利では司会の昇太の計らいによって、番組側が用意した浴衣を着用した女優の菅野美穂 に、自身が座っていた席を明け渡した上に、2006年1月1日の『大笑点』内でのレギュラー大喜利に参加した長州小力以来約16年9ヶ月ぶりとなる、落語家以外のタレントのレギュラー大喜利全編参加を許す羽目になった。
桂歌丸との関係
歌丸が「笑点」の正式司会に就任して春風亭昇太が加入してからは、隣のたい平と昇太と共に「ブラック団」を結成して団長を務めた。なお、歌丸への罵倒が更にエスカレートしたのはこの時期。そのせいか、歌丸に「全員全部没収」を初めて発動させたのは彼である。
なお歌丸が笑点の司会を卒業して昇太が新しく司会に就任してからは、昇太が脱退という形で代わりに「ブラック団」には2代目林家三平が加入した(「笑点」に初登場した時の着物の色が黒だったから)。その際はマスコミなどから次期司会者候補筆頭に挙げられながらも落選したことや、昇太の独身・低身長を罵倒して座布団を取られることがある。
死去ネタについては歌丸降板後、そして逝去後も最後の最後まで度々使っており、直接歌丸の名や本名を出すこともあれば、名前こそ出さないものの、歌丸を連想させる表現を用いたこともある。こうした歌丸罵倒ネタについて、円楽はとある国会議員の不祥事との関連で「(歌丸への暴言は)権力に逆らっただけ」と主張したことがある。
もっとも実際には歌丸とは仲が良く、しょっちゅう二人会などを開いたり、歌丸の家に稽古しに行くなどしていた。これは、5代目三遊亭圓楽が司会者になったのに伴い、どういうキャラで行こうかとした際、歌丸から「私の事をネタにしてもいい。」とアドバイスされたためである。それまでは日和見キャラだった。
当時、歌丸との対立ネタは4代目三遊亭小圓遊が担当していたものの、彼は笑点での立ち位置への悩みなど過度のストレスを抱えて深酒をするようになり、そのことが原因で1980年に急逝。歌丸にとっても、キャラ付けに迷う後輩を放っておけなかったと同時に番組内における「敵役」が不可欠の状態にあったといえる。
そのため、歌丸の方でも罵倒されても笑っていたり、円楽も「罵倒ネタを用いた際は収録後に毎回謝っている」と笑点の挨拶で発言したこともある。一方で、6代目円楽の襲名披露興行を寄席で行うことができたのは、歌丸が会長を務める落語芸術協会の協力があったためである(5代目圓楽の師匠である6代目三遊亭圓生が落語協会を脱退したときの経緯によって圓生一派が寄席から締め出されて以降、その流れを汲む円楽一門会も寄席に出演していない)。
その後2017年より客員会員の身分で自身に限定して落語芸術協会に加盟している。
近年は落語芸術協会の定席興行に円楽一門会の枠が一枠設けられたり、円楽自身も芸協の真打襲名披露の口上に出演することもあるなど、芸協との繋がりを強めている。
立川流一門も(芸協に加入した立川談幸の一門を除き)ときおりゲスト的な出演があるものの、円楽一門会のそれとは頻度が段違いに少ない。
また、兄弟弟子の好楽を素人扱いし罵倒するのは楽太郎時代からあったが、円楽を襲名してからはよりエスカレートしていた。
歌丸が最後に『笑点』司会を務めた回のお題の一つでこのようなやりとりがあった。
歌丸「笑点に涙は似合わないので豪快に笑ってください。私がどうしたの?って聞くので答えてください。」
円楽 (挙手)
歌丸「円楽さん」
円楽「わっはっはっ!」
歌丸「どうしたの?」
円楽「笑ってないと涙が出るんです。」
歌丸「一枚やろう!」
無論、その後にいつもの罵倒ネタで座布団没収されたが・・・。
しかし、お題の回答としては彼の心情が大いに込められたものであり、多くの視聴者もこの回答に心を打たれた。
歌丸との今生の別れ
2018年7月2日に歌丸が死去。この報せに「旅先の仕事中の為申し訳ありません。とうとう洒落にならなくなりました。(中略)本当の父親、育ての親の先代(五代目圓楽)。守ってくれた最後の父親(歌丸)との別れです。楽さんと呼んで側に置いてくださってありがとうございました。頼る人が居なくなりました…合掌」と一筆の形で述べた。
死去直前の4月からの入院に際して、見舞いに訪れていたことを明かしている。4月には目が合うだけで会話はできず一度は諦めていたのだが、最後に見舞いに訪れた時(6月20日)には持ち直し、笑顔を見せながら色々な話をしてくれたこと、復帰に向けて発声トレーニングをする姿を見て回復していると安心しきっていた矢先の訃報だったという。
そして歌丸死去後、7月8日の笑点歌丸追悼回では前半は袈裟姿で現れ(実は円楽は得度を積み曹洞宗の僧侶の資格と戒名『楽峰圓生』を持っている)、後半の大喜利ではトリの回答を務めたのだが、歌丸へのこれまでの感謝と共に最後のジジイ罵倒ネタとして「ジジイ!早すぎるんだよ!」と思いのたけを込めた形で〆た。その際は目には光るものがあり、最後の挨拶では手拭いで目を拭う姿があった。
今生のメンバーとの別れとその後
そして、その4年後の2022年9月30日、彼もまた歌丸のいる天国へと旅立っていき、人生と同時に「笑点」も卒業することになった。満72歳と、歌丸よりも(更には、先代圓楽・談志・前田武彦(笑点2代目司会者)やこん平、存命中の木久扇、好楽、小遊三よりも)若い年齢だった。
笑点メンバーがレギュラー現役中に亡くなるのは、上述の小圓遊以来42年ぶりであり、笑点メンバーの卒業は2代目三平以来、実質9ヶ月ぶりであった。
そして6代目円楽死去後、10月9日の6代目円楽追悼回では、大喜利の2問目ではたい平がトリの回答を務めたのだが、6代目円楽へのこれまでの感謝と共に『北の国から』の物まねを昇太にやらせたが、あまりにも上手くなかったため途中で歌を打ち切り、最後の罵倒ネタとして「円楽っち~!帰ってきて~!下手くそすぎる~っ!!」と思いのたけを込めた形で〆た。その際、昇太の計らいにより生前6代目円楽の物まねが上手かったとの理由で、空席に座布団が3枚積まれたところに7枚あげて、座布団10枚を達成させる一幕があった。
翌10日には日テレ系で笑点メンバー出演のもと、円楽の落語家人生・笑点メンバーとしての軌跡を振り返る追悼特番が放送され、往年の秘蔵映像と共に脳梗塞からの復帰、そして生前最後の高座となった国立演芸場8月中席に向けたリハビリに励む姿が放送された。
そこには、麻痺の後遺症や筋力・体力低下によって衰弱し、弟子たちの介助を受けて高座に上がる満身創痍の姿ではありながらも、自分が慕った歌丸と同様に最後の最後まで現役を貫き通した円楽の姿があった。その姿を見たメンバー一同(特に好楽、たい平、山田、宮治は涙を堪えることができなかった)が円楽への感謝の想いを語り、番組は〆られた。
通夜・葬儀自体は近親者(喪主は長男の一太郎が務めた)のみで行い、同年12月2日に関係者を対象としたお別れの会が開催された。
没後の戒名は『泰通圓生上座』(たいつうえんしょうじょうざ)。本名の泰通と、生前の戒名同様に最後まで7代目の襲名にこだわっていた大名跡「圓生」が刻まれている。本人は生前から4団体に分裂した江戸落語界の再統一、さらには上方落語協会も含めた東西落語界の大統一を願っていたとされ、協会間の蟠りの解消に尽力してきた。さらに「俺は繋ぎでいいから」と圓生の名跡復活の機会を窺っていたが、いずれも叶うことはなかった。
葬儀で用いられた彼の遺影は笑点でお馴染みの紫の着物の姿であり、そして彼が納められた棺もまた薄紫と、笑点でのカラーで通していた。
前述通り、大喜利内では腹黒というキャラクター故に『友達がいない』と各所でネタにされまくっていたが、実際は大ベテランから若手、そして『博多・天神落語まつり』に代表されるように、東西問わず多くの落語家たちと分け隔てなく交流を持ち続けた。そのため、円楽の訃報が流れた際には笑点メンバー以外にも多くの落語家たちがその死を悼むコメントを出すなど、彼を慕う落語家も多かった。また、前述のお別れの会においては、たい平が笑点で着用しているオレンジ色の着物を着て司会を務め「こんなにたくさん友達がいたとは」と挨拶中にネタにしていた。
2023年2月5日、人生と同時に笑点を卒業した6代目円楽に代わって、春風亭一之輔が新たにレギュラーメンバーとなった。その後しばらくの期間笑点での円楽は、オープニングアニメにて歌丸のイラストの左上にこっそり映っているという形になっていた。
余談・エピソード
- 落語家になった理由は、「父親が警察官で反抗心から学生運動に参加していたが、ユートピアを追うことに疲れ、その時に落語を聞き直したらその中にユートピアを見つけたから。」と語っている。
- また5代目圓楽への弟子入りは、通常は師匠に頭を下げて入門する落語界でも珍しく師匠からスカウトされるものに近かったとされる。元々は5代目のカバン持ちのアルバイトだった(弟子にすればタダで使えると5代目の考えがあった説もあり)。
- 5代目圓楽門下として当初は落語協会、後に五代目円楽一門会の所属となっているが、これ以外にも2017年から落語芸術協会に客員加入している上、落語立川流にも(プロ枠のAコースではなく著名人枠のBコースという形であるが)一時期所属していたことがある。江戸落語主要4協会すべてに何らかの形で在籍した事のある稀有な落語家という事になる。
- 実は5代目が司会だった頃、大喜利の本番中に兄弟子の好楽とともに本気でダメ出しをされる事があった為、レギュラー降板を考えた事もあるがプロデューサーの説得で思いとどまり最期まで全うした。
- 「圓楽」の名跡襲名は5代目の生前に本人から直接指名されていた事が、5代目の死後に新宿末廣亭で行われた6代目襲名披露公演時に当時落語芸術協会副会長だった小遊三から明かされた。また5代目は6代目と共に揃って襲名披露を行う事を何よりも楽しみにしていたとも明かした。
- また弟弟子で好楽の息子の三遊亭王楽が7代目「圓楽」を襲名予定だが、6代目が遺言で王楽を7代目に指名していた事が王楽の襲名記者会見で明かされた。
- 伊集院光の落語家時代からの師匠でもある。当時の高座名は三遊亭楽大。伊集院が落語家を廃業するきっかけとなった「伊集院光」名義でのラジオ出演の際にも楽太郎は伊集院を擁護し続けた(関係性については一門弟子の項も参照)。
- マラソン走者の瀬古利彦に顔が似ていると言う事で、若い頃は瀬古の物真似でテレビ出演する機会が多かったが、35歳のときに落語で勝負したいという思いから封印する。但し、後年はこの封印を解いたようであり、笑点の大喜利でも稀に瀬古の答えを披露した他、旧国立競技場解体前に行われたイベントでは、「トシヒコ・セコ」のアナウンスの後、笑点のテーマ曲とともに円楽が登場する、という演出があった。直後に瀬古本人が登場し、共演している。
- かつては代々木アニメーション学院の学院長を務めていた。
- 女子大生が選ぶイケメン落語家グランプリで1位を取ったことがある。
- 6代目襲名に前後して9代目林家正蔵の祝儀脱税事件が発覚し、そのとばっちりで円楽も税務署に呼び出され調査されたと言う。一般の前では笑点などで「襲名披露で黒字が出るのは根岸の林家一門だけ」と笑いの種にしていた。
- 2016年6月にゴルフ会で知り合った女性とホテルから出たところを週刊誌に報じられ、潔く不倫疑惑を認めて謝罪し、落語家として一から精進することを明らかにした。2017年11月にも同じ女性との疑惑が再浮上したが、ただ単にゴルフをしていただけであった事により沈静化した。
- 上記の会見後に収録された第2520回(7月3日放映)では、登場して着席するや、まだ何も言っていないのに、昇太に座布団をいきなり全部取り上げられたのを皮切りに、他のメンバーに不倫・ホテルネタをかまされ、自らも自虐ネタを披露するなど、笑点流の『禊』により散々な目に遭った。たい平に関しては自業自得だが。
- 『笑点』では定番のお題として自動車(タクシーなど)ドライバーに扮しての問題が出され、その際自動車のステアリング部分を実際に持って演じることになるが、円楽はセンターコンソールに見立てる部分が右側になり、普段から左ハンドル車(外車)に乗り慣れていたことがわかる。
- 2020年9月28日からTBSラジオ制作、CBCラジオほかでそれまで放送されていた近石真介の「はがきでこんにちは」の後を受ける形で「三遊亭円楽のおたよりください!」を放送していた。(円楽の逝去後は方針が固まるまではアシスタントとして伊集院が単独で出演を続けていた)
- 大のプロレスファンとしても有名であり80年代には全日本プロレスの後楽園ホールの年間シートを購入していた。ジャイアント馬場とはしばしば麻雀に興じ、天龍源一郎がWARを立ち上げた際にはこれを支援した。またウルティモ・ドラゴンに取っては大恩人であり円楽がいなければ闘龍門とドラゴンゲートの成功はなかったと言っても過言ではなかった(因みに天龍とは、中学時代の同級生だった)。円楽が亡くなった翌日には新日本プロレスの創始者であるアントニオ猪木も死去している。
一門弟子
直弟子
- 真打
三遊亭楽生 - 惣領弟子
三遊亭楽京 - 柳家小里ん門下から移籍
三遊亭楽市 - 三遊亭楽春門下から移籍
三遊亭楽大 - 2人目の「三遊亭楽大」
三遊亭一太郎 - 実子、本業は声優
※弟弟子で付き人だった三遊亭五九楽が一門の顧問格だった。
- 二ツ目
三遊亭楽天
三遊亭楽八
三遊亭楽㐂
三遊亭楽花山 - 三遊亭楽生門下から移籍
※楽㐂は2023年元日に廃業、他は同日付で三遊亭小圓楽(5代目圓楽の6番弟子)門下に移籍
- 前座
三遊亭萬次郎 - 最後の直弟子
※2023年元日付で4代目三遊亭萬橘(6代目三遊亭圓橘門下。圓橘の師匠は三代目三遊亭小圓朝⇒5代目圓楽。)門下に移籍
落語以外の芸能に転向した弟子
石田章洋(三遊亭花楽京(一人目)、放送作家に転身)
伊集院光(三遊亭楽大(一人目)、タレントに転身)
両名に関して円楽は廃業後も生涯弟子(身内)として扱い続け、ラジオ・テレビ等で共演するなど交流を続けていた(伊集院に関しては本人項目も参照)。
前述した円楽のお別れ会の際には両名共に円楽の弟子として、上記の一門弟子(弟弟子)達と共に登壇して挨拶をしている。
関連タグ
林家木久扇 三遊亭好楽 三遊亭小遊三 林家たい平 桂宮治 山田隆夫
林家こん平 桂才賀 2代目林家三平 長州小力 松崎真 6代目桂文枝
6代目三遊亭圓窓:自身と入れ替わりに『笑点』を卒業、奇しくも自身の半月前の2022年9月15日に死去した。
ゲートボール:審判の資格を持っており、1980年代テレビ朝日で放映されていた「おはようゲートボール」で審判として出演していたこともある。
犯人はヤス:本名と、ネタで歌丸や5代目を年中殺していたことから、インターネット上で言われるネタ。実在する犯人はヤス。
アントニオ猪木:一日違いだが、円楽と一緒に旅立った名プロレスラー。
天龍源一郎:元プロレスラーで墨田区立両国中学校時代の同級生。円楽、猪木と2日連続で知人を失った。