概略
日本国内においては、一般に明治4年に設立され昭和20年に解体された大日本帝国の大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の総称を差す。
歴史
明治維新後、政府は武士に代わる徴兵制による近代的な軍隊を編成していき、西南戦争を鎮圧し、日露戦争に勝利。第一次世界大戦にも参戦し勝利した。
第二次世界大戦(大東亜戦争)では、中国大陸での戦争(日中戦争)、米英などとの太平洋戦争を同時に戦う状況に追い込まれ、特にアメリカ軍の圧倒的な勢力に苦戦を強いられた。大戦末期にはソ連が中立条約を破棄して参戦。敗戦へと至り、降伏から間もなくして復員・恩給・掃海担当の部署を残して解体された。
組織
軍隊の人員は陸軍がはるかに多かったが、予算は陸海軍ほぼ同じ。そのため物資・待遇面では海軍が恵まれており、陸軍の下級士官は総じて予算難であった。陸軍は徴集兵が主力であり、海軍は志願兵が多かった。徴兵は陸軍が担当し、一部の人員を適当に海軍に回していた。
指揮系統
日本軍は明治天皇陛下以来、大元帥たる天皇陛下を頂点としてきた、その下に元帥府・大本営(戦時のみ)・陸軍大臣・海軍大臣・参謀本部(陸軍)・海軍軍令部(軍令部とも・海軍)・などが置かれている。
特徴
- 近代の内閣総理大臣と内閣には日本軍の行動を抑制することは法律がないためできなかった。日本軍を統制できるのは大元帥たる天皇陛下のもつ統帥権だけであり、それを輔弼できるのは陸軍・海軍の大臣及び参謀総長(陸軍)・軍令総長(海軍)の4人のみであった。
- 軍人勅諭により陸海軍人の政治介入は戒められていた。軍人の権利が制限されてしまっていたともいえる。
- 陸軍・海軍大臣ではなく参謀総長・軍令部総長が実質的に軍を統制していた。
- 元帥府は日本の場合は、天皇陛下の軍事上の補佐をする人々であり、陸軍・海軍大臣を退役した武官が元帥になることが多かった。
帝国陸海軍
陸海軍の仲の悪さは未だに語りぐさで、先の大戦時には「陸海軍相争い、余力をもって米英と戦う」と言われたほどである。例えば以下のように、無意味な意地の張り合いのようなことをしていた。
大戦末期には統合参謀本部の設立構想があったが、陸軍に主導権を握られることを嫌う海軍の反発により、まとまらないまま終戦を迎えた。
空軍
また、日本軍には諸外国の軍と違い、空軍が編成されなかった。陸海軍双方で独自に航空部隊を編成・強化していたが、陸海軍による主導権争い、憲法の改正、戦力の伝統性などの問題から、最後まで陸海別個に航空戦力の強化を行い、独立機関は解体されるまで設けられなかった。(なお、第二次大戦時までの米軍も独立した空軍を持っていなかったが、陸軍航空隊が地上軍とは独立した作戦指揮権を持っていた)
政治関与
第一次大戦以降、軍部が大きな権限を持つようになっていき、それには新聞社が大きな関わりを持っている。以下はその経緯である。
発端
日露戦争が終わり、ポーツマス講和会議が開かれた時、講和条件を巡り多くの新聞社が政府に対し批判の論陣を張り、国民の多くが新聞社に煽られ、全国で反政府暴動が起き、日比谷公会堂が焼き討ちにあい、講和条約を結んだ小村寿太郎が国民的な非難を浴びた。
唯一、徳富蘇峰の国民新聞だけは反戦を主張したが、その国民新聞も後に焼き討ちにあう。
一部の研究者の間では、これらの経緯が日本の戦争参加の分水嶺であったと考えられている。
クーデター
政府のやり方に反対していた、海軍の青年将校が「昭和維新」を叫んで五・一五事件を引き起こし犬養毅総理をはじめとした当時の政府首脳が殺害された。その後、軍事クーデターであるにも関わらず多くの新聞社は彼らを英雄と称え減刑を主張し、その新聞社による煽りよって国民による減嘆願はが国民運動まで発展し、その世論によって首謀者たちには軽い刑が下され、その異常な減刑が二・二六事件を引き起こした。
これ以降当時の新聞社の報道と、それに煽られ便乗した当時の国民によって、軍部主導の国家運営に歯止めが掛からなくなってしまう。
戦後
GHQの政令により日本軍の組織は完全に解体されたが、陸上自衛隊が日本陸軍とは組織上つながっていないのに対し、日本海軍の掃海部隊は海上保安庁を経て海上自衛隊に引き継がれた。海上自衛隊は海軍の伝統を受け継ぐ後継組織を自認している。
なお、海外においては現在の自衛隊(Self Defense Force)のことを日本軍(Army, Navy, Air-Force)と称することは特殊ではない(というより普通である)ので注意されたい。