クモハ84形
じぇいあーるでうまれたきゅうがたこくでん
概要
かつて西日本旅客鉄道が保有・運用していた電車。
1988年、国鉄が解体されJRグループが発足すると、まず手がつけられたのは「ガラガラ長大編成」「空気輸送」と揶揄された閑散路線の短編成頻発化だった。
このため単行・ワンマン運転用の形式として、国鉄時代にすでにクモハ123形が登場していたが、JR初の1988年3月ダイヤ改正には、宇部線向け単行運転形式が不足することになった。
一方、既成国鉄車を改造しようにも、国鉄の、101系以降の所謂新性能電車は主電動機8個を1台の制御器で制御する1C8M制御のため、電動車2両を一組とする2Mユニット方式をとっていた。
119系や、105系の103系改造編入車分といった、1C8M制御では直並列制御を行う主電動機を4個永久直列にして1C4M(制御器1台に対してモーター4個)にした例もあったが、消費電力との効率が悪いことなどランニングコストが悪化していた。
(国鉄時代、既にこの弊害はわかっていたのだが、国鉄では「地方線区は首都圏関西圏の都落ち」というのが常識になっており、地方閑散線区向けの車両新製など、なにより膨大な赤字を抱えている状態では国会の予算承認を得られなかった。このため、承知の上で改造扱いとするこの手法をとったのである。クモハ123形はJRに国鉄の負債を押し付けないという名目でなんとか通したのだ)
そこでJR西日本継承とされていたが、すでに用途廃止となり留置されていた、元72系の荷物電車クモニ83形の活用が計画され、同形式の再旅客化改造が決定した。これがクモハ84形である。
改造といっても、荷物電車時代の荷役扉をそのまま客用の自動ドアに交換し、車内を客室用にして座席を設置、またワンマン旅客運転用の設備を追加する、という最低限の改造になった。
このため、旅客車としては異様な扉配置の側面になった。
そしてこの形式クモハ84は、101系以前のツリ掛け式駆動を採用した旧形国電の形式号規定(車体号は5桁の番号とし、その上2桁を形式とする)に基づいて起こされた最後の形式となり、同時にJRにおいて新たに誕生した最初で最後の旧形国電形式となった。
瀬戸大橋(本四備讃線)開業後、宇高航路への連絡線から末端ローカル線に転落した宇部線で、クモハ123形などと共に運用についた。
とは言うものの、宇高航路からJRは撤退したが、当時は民間2社のフェリー会社が値下げ頻発合戦を行っており、以前から宇野・高松間を往復していた地元民にとっては貴重な足の一部だった。
このことから宇部線では単行ローカル路線であるにもかかわらず快速運転も実施されているが、クモハ84形がこれにつくことが多かった。
これは実は合理的な判断で、クモハ84形は発電ブレーキを持っていないため、起動・停止を抑えたほうが経済的という理由があった。
しかしもともと72系、つまり戦後の高度成長期に酷使された車両であることに加え、海からの潮をマトモに浴びるため、さらにクモハ84となってからも単行ローカル線としては異例の酷使により、急速に劣化が進む結果となった。
また、大手私鉄では、改造もとの72系と同世代の車両が既に標準的に採用していた発電ブレーキを持っていなかったということも大きかった。
このため、1995年に運用組み換えで捻出されたクモハ123形が宇部線向けに新たに岡山電車区に配備されることになり、それに伴い1996年に定期運用を離脱、廃車となった。
君去りし後
JR西日本では、旅客形式として継承したクモハ42形を、その後も小野田支線で定期旅客運用に2003年まで使用していたが、これの取替えという(同形式は戦前製である)話がなかったことから、宇部線での運用が過酷なものだったことが伺える。
(ついでに言うとクモハ42形が運用離脱・廃車に追い込まれたのは老朽化が直接の理由ではなかったりする)
また、同じ72系として製造され、後に車体を103系と同等に取替え、さらにその後に電装品も交換して正式に編入された103系3000番台が、JR東日本2005年まで運用された。