ポジションは一塁手、左投げ左打ち
旧制県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)、旧制立教大学卒
学徒出陣により同年秋に応召し、復員後は八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人チームを渡り歩く。
1950年に毎日オリオンズに入団し1955年に引退。
その後指導者となるり、監督として大毎オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズをパ・リーグ優勝に導くが、日本一を経験できずに終わる。
故に「悲運の名将」と言われるが、本人は「本当に悲運だったら戦死しとるわ!!」とマジギレしていたらしい。むしろ「3つのチームでよい選手達と巡り会い、8度も日本シリーズに連れてってもらったんやから、むしろワシは『幸運な凡将』や」と語っていた。
エピソード
- 左利き故に一塁が正ポジション、だったはずだが、旧制中学時代に二塁を守っていた事があったため、一度だけだが(しかも1イニングのみ)、二塁の守備位置についた。日本のプロ野球で左利き選手が二塁を守ったのは、西本を含め3人のみ、しかも第2次世界大戦敗戦後・パセ分裂後いずれも唯一のケースである。
- 大毎オリオンズの監督を、就任1年目でパ・リーグ優勝に導きながら、日本シリーズでの作戦をめぐってオーナーの永田雅一(永田ラッパ)と大喧嘩、結果、永田ラッパに追い出される形で監督辞任を余儀なくされてしまった。
- 阪急の監督時代、選手達の「笛吹けど踊らず」状態にブチ切れ、マネージャーを通じて信任投票を行った。「もし×が一票でも入ってたらワシはやめる!」と啖呵を切ってしまっており、結果×が11票も入ってしまったことから辞任するつもりでいた。だが選手達としては「厳しすぎる人ではあるけどさあ・・・・・・」というのが正直な気持ちであり、まさか辞めるとは思っていなかったフシがあったようだ。さらに当時のオーナー(阪急電鉄重役)が、当時の球団社長に対し「西本辞めさすな!!」と命令、球団社長が土下座したことで辞任をせずにすんだ。
- 阪急の監督を辞めて間もなく近鉄の監督に就任したが、実は当時の近鉄の関係者が、阪急側に土下座して頼み込んだ上での監督「移籍」だった。