生涯
永享4年(1432年)~文明18年(1486年)
室町時代、鎌倉公方を補佐する関東官領・扇谷上杉家に仕える家宰(家長に代わって家政を執り仕切る職責)の太田家に生まれ、元服後は名を資長とした。上杉家での分家同士による内紛や鎌倉と室町幕府の対立が繰り返され、そんな中の康正2年(1456年)に資長は家督を相続し、主君の上杉政真と次代の定正に補佐として仕えた。
上杉家が対立する享徳の乱を起こした足利成氏との戦いに備えるため、江戸家の領地であった武蔵国豊嶋郡に城を築いた。それが後の江戸城である。河越にも築城し、相模や武蔵一帯に勢力を拡大させた。この頃に出家して法名「道灌」と称したといわれる。
文明8年(1478年)に山内上杉家の長尾景春が上杉家に背いて上杉家を攻撃し、道灌は扇谷上杉家に忠義を尽くして各地を転戦。文明14年(1482年)に対立勢力同士が和議を結び、享徳の乱も景春の乱も終結し、この戦いと道灌の活躍で扇谷上杉家を上杉分家の中でも山内上杉家に匹敵するまでの勢力にまで成長させた。
絶大な力を持つまでになった道灌だったが、文明18年7月26日(1486年8月25日)に主君の上杉定正邸宅に招かれたところを暗殺されてしまう。暗殺の原因や首謀者については扇谷家での内紛や下剋上を恐れた定正の陰謀、山内家の策動など諸説ある。
人物
文化人としても教養が高く、易経を学び、和歌にも精通して様々な歌を残した。
後に関東開拓の功労者の一人として多くの武将や武士に人気が高く、英雄として戦国時代や江戸時代にも称えられ、関東各地に色々な伝説が残されている。