ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

戦艦扶桑の編集履歴

2014-05-11 16:00:07 バージョン

戦艦扶桑

せんかんふそう

日本海軍が初めて国内で独自設計した超弩級戦艦。『欠陥戦艦』として有名。

概要

扶桑型戦艦の一番艦。純粋な戦艦としては、日本初の超弩級艦であり、竣工時は世界最大の戦艦だった。

建造の経緯や設計の特徴については、扶桑型を参照。


大戦まで

1915年に竣工すると、すぐに第一艦隊旗艦となった。第一艦隊司令長官は連合艦隊司令長官を兼ねるのが日本海軍の通例だが、日露戦争後より第一次大戦ごろまでは連合艦隊が設置されなかった時期なので、この頃は第一艦隊旗艦こそが日本海軍の艦艇で一番名誉あるものであったろう。


1930年、扶桑は近代化改装を受けたが、この時今まで後ろを向いていた3番砲塔を前に向け直した(山城はそのまま)。このため、艦橋の根元がえぐれるような形となり、設備を高く積み上げたこともあってあの不安定ぽい艦橋が生まれた。


大東亜戦争において

開戦時には真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊に曳航が必要な艦が発生した時などに備えて支援するため、昭和16年12月8日に柱島から出撃した。

昭和17年4月18日に特設監視艇が日本に接近する米空母を発見、これを攻撃するため他の艦と共に扶桑も出撃したが、米空母は既に反転し離脱していたため捕捉することは出来なかった。

ミッドウェー海戦では主力部隊の一員として出撃。扶桑たちはアッツ、キスカ両島攻略支援のため北上、必要があれば主力部隊に合流できるようにするためキスカ島南方500浬の地点に向かうように命令された。

6月5日には主力部隊に合流せよと命令を受けて南下していたが、ミッドウェー攻略作戦が中止されたため日本へ帰還した。その後は国内に留まり訓練を続けていた。

昭和18年10月ごろにはトラック泊地に進出。

昭和19年2月ごろにリンガ泊地に移動、5月ごろにはあ号作戦に参加するためタウイタウイ泊地に移動する。

しかし、ビアク島に米軍が上陸。扶桑はビアク島の米軍攻撃のためダバオに移動し、6月には渾作戦に参加するが誤報などにより作戦は中止されダバオに帰還した。

昭和19年10月に米軍がフィリピンのレイテ島に上陸した際、西村艦隊として姉妹艦山城他と共にレイテ湾に殴りこみをかけたが25日未明、レイテ湾南方のスリガオ海峡で米艦隊の待ち伏せ攻撃を受けた(レイテ沖海戦)。

その際、魚雷4本がかねてよりの問題であった『全長の5割に及ぶ被弾危険箇所』に命中し大爆発、艦体が真っ二つに折れて沈没。当時の魚雷の威力が改装時に想定されていた威力よりも大幅に増大していたとはいえ、生存者10人前後という悲惨極まりない最期を遂げた。

このスリガオ海峡での海戦で山城も撃沈され、西村艦隊で生還したのは駆逐艦時雨のみだった。


外見

近代化改装を繰り返した結果の、ジェンガかはたまた九龍城かと揶揄されるほど見た目に不安な艦橋が特徴であり、この独特な外観を好む人もいる。


超高層戦艦

↑「戦艦扶桑」タグがついているのはそうした事情による。


検索について

pixivにおいては「艦隊これくしょん」における擬人化キャラクター(扶桑(艦隊これくしょん))の投稿が多いが、上述の通りその独特な外観が好まれ、本艦そのものに関する投稿も少なくない。

本タグはピクシブ百科事典における記事独立用のタグであるため、検索においては「戦艦 扶桑」など複数条件での絞り込み検索を推奨する。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました