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酸素魚雷の編集履歴

2014-05-16 11:20:19 バージョン

酸素魚雷

さんそぎょらい

酸素を酸化剤として空気の代わりに用いた魚雷のこと。主に日本海軍が用いた九三式魚雷、九五式魚雷の名称を指す。別名ロング・ランスとも。

概要

魚雷の歴史は1864年までさかのぼることができる。オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍将校の依頼によってイギリス人のロバート・ホワイトヘッドという人物が自走式魚雷を完成させたことに端を発する。こうして魚雷が誕生し、当初30年間はタンクの中に貯め込んだ圧縮した空気でスクリューを回すという冷走(冷式とも)という形式を取っていた。しかしこの方式では航続距離(魚雷の射程距離)はタンク内の圧縮空気に大きく依存していた。つまり圧縮空気がある分だけしか進まないのだ。


これを解決すべく日露戦争前後に現れたのが乾式と呼ばれる形式だった。この方法はタンク内の圧縮空気を調整装置で適度に減圧し節約しながら送りだす。このままだと力が弱いままなので石油やアルコールを噴射、点火して空気の体積を増やし、この熱気をレシプロエンジンないしタービンに送りこんでスクリューを回し動力とする方法であった。乾式魚雷ができたことで魚雷の航続距離は飛躍的に伸び、冷式魚雷の約2倍の航続距離を確保することが可能となった。その後熱気に水を噴射し水蒸気でタービンを動かす湿式と呼ばれる方式も登場し、魚雷の航続距離はさらに伸びて行った。


簡単にいえば空気を効率よくケチることができるようになったのだ。空気をケチれるようになり空気タンクのスペースを減らして炸薬の量を増やせるようになり、航続距離は長いままに魚雷の威力を上げることが可能となったのだ。実例を上げると第一次世界大戦の魚雷で速度は約30ノットから35ノット、航続距離は最高5000m程度にまで伸びたのである。

そして「この空気を全て酸素にしてしまえばいいんじゃね?」と思ったのがいた。日本海軍である。経緯は長くなってしまうので省略するが日本海軍は魚雷の開発を進めていた。魚雷の重要な要素であった空気は前述の通り、魚雷を進める動力源から魚雷を進めるために燃焼させるだけのものとなった。となると後はどれだけ燃えるか、となったのだ。燃えるために必要なものは酸素である。となればタンク内には酸素だけ入れればよい、という発想である。これで同じタンク容量でも4倍から5倍の大きさのタンクに圧縮空気を詰め込んだのと同じこととなった。つまり炸薬の量を大量に増やすことができるようになったのだ。これにより魚雷の威力はもちろん、航続距離も飛躍的に上昇し、航続距離は20,000mから25,000m(速度を調節し酸素を節約すれば約40000m先の敵も狙えたと言う。この射程距離は戦艦大和の主砲に匹敵するものであった。)まで伸びた。そしてかつ馬力も上がり魚雷自体も50ノットに到達するなどスピードもかなり上がった。(他国の魚雷を例にとるとほぼ同時期に開発されたアメリカのMk.15魚雷で最高速度は45ノット、最長航続距離が13,600mと酸素魚雷がいかにバケモノ性能かがわかる。)さらに酸素を燃焼した際に発生する二酸化炭素は排出されてもすぐ水に溶けるために雷跡(魚雷の走った後できる跡)が敵に視認されにくいというメリットもあった。(今までの魚雷は圧縮空気を使っていたため、空気中の窒素が水に溶けず雷跡がくっきり出てしまうのだ。)かくして世界初の酸素魚雷、九三式魚雷が日本海軍によって開発されたのである。


これを元に、潜水艦用に直径を縮めた九五式魚雷が開発されている。しかし整備性が悪いため、環境劣悪な潜水艦ではあまり好まれなかった。このためか、攻撃機用の航空魚雷は実用化されていない。また、人間魚雷「回天」は九三式魚雷の機構を利用している。


第二次世界大戦では、多くの海戦で連合国艦艇を屠り、「ロング・ランス」と呼ばれ恐れられた。


なお、他国も酸素魚雷の開発は行っていたが爆発事故などにより断念しており、実用化にこぎつけたのは日本以外ではイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである。

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