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スバル360の編集履歴

2014-06-09 02:23:04 バージョン

スバル360

すばるさんびゃくろくじゅう

富士重工(スバル)が生産した軽乗用車。ニックネームは「てんとう虫」。

前史

詳しいことは富士重工業の記事に譲るが、戦後日本ではGHQにより航空機の研究、製造の一切を禁止されていた。中島飛行機も例外ではなく富士産業へと改名しスクーター(ラビットスクーター)を売っていた。こうして平和産業としての一歩を歩み始めた富士産業であった…はずだったのだが当時の政策によって解体の憂き目に会い工場ごと15社に解体されてしまう。しかし解体前に既に勃発していた朝鮮戦争は戦争特需をもたらすだけではなく、日本の政策をも変えるものであった。GHQによって接収されていた土地、建物などが元の所有者に返されることになったのだ。これを受けて解体された富士産業もかつての工場や本社工場など4社を取り戻し、前より規模は小さいものの富士重工業として生き返ったのであった。


時代背景

そんな1950年代は国産乗用車は複数の大手メーカーから売られていたのだが、その価格はどれも100万円を越えるものばかりで当時月収数千円ほどしかなかった庶民にとってはマイカーというのは夢のまた夢の話であった。また軽自動車の基準も今より厳しく、軽自動車というよりは二輪車や三輪トラックのためにあると言っても過言ではなかった。実際に何社も4輪の軽自動車を作ったがそのいずれも失敗し、比較的まっとうな成績を収めたのはスズキのスズライトのみであった。しかしそのスズライトでさえも成功したと言えるものではなかった。


そんな中、富士重工では普通乗用車の開発に取り組みスバル1500の試作にまでこぎつけるも採算面や競争力への懸念と不安からスバル1500の市販化を断念、スバル1500の開発は頓挫してしまった。しかしここで培ったノウハウやデザインは後にスバル360で活かされることになる。


1954年には新道路交通取締法が施工され大きさはそのままに排気量が360ccに統一された。このころの軽自動車は非常に不安定なカテゴリで現れてはすぐに消えを繰り返す不安定なものだった。安定して生産されていたのは前述のスズライトのみであり、それでさえ月間数台というレベルで細々と生産されているにすぎなかった。

この不安定なカテゴリに目を付け、大胆な手法で挑んだのが富士重工業だった。小さすぎる軽自動車の基準ではどう考えても厳しい4人乗り、路線バスが走れる場所ならどこでも走れる走破性、最低でも排気量350ccのエンジンを搭載し最高時速は80km/hを出すと言う無茶苦茶で不可能に限りなく近いものであった。


実現への道のり

富士重工業はこの不可能を可能にするため、今まで出来合いの部品で自動車を作っていたのを見直し、この軽自動車のためだけに人員やコストを割き部品を新規に設計、生産した。ねじも例外ではなく、ねじまでもこの軽自動車のために新規開発されたものだというから驚きである。こうした開発方法は非常にレベルの高い近代的な手法であった。

またエンジンを前に置くのではなく後ろに置いたりタイヤは小さいのを新規開発するなどして徹底的に最小化し節約。車内に使えるスペースを大きくしたのであった。

自動車の要であるボディは重くしないために最低の強度で済むよう独特な卵型で構成し、また強度に影響のない場所にはアルミ材を使うなどしてこれまた徹底的な軽量化に取り組んだ。

また、ボディが独特な卵型になったのは大人4人が乗り込んでも大丈夫なようにとの工夫の賜物でもあった。

こうした新規開発などによる徹底的な軽量化や、スクーターに使っていたエンジンを流用できたことなどによってこの軽自動車は当時の日本の大衆車構想の要求事項を全て満たし、あるいは上回り、そして運輸省の試験も全てパスしスバル360として陽の目を見ることになったのである。


概要

昭和33(1958)年3月3日に発表され、同年5月1日発売。発売当初の本体価格は42万5千円。

プレス発表では会場に訪れた記者たちが代わる代わる試乗しスバル360の乗り心地を走行性を体験し、大反響を呼んだ。日本国内のメーカーはもちろん、イギリスの自動車雑誌にも「スバル360はアジアのフォルクスワーゲンになるだろう」と評されるほどだった。販売1号車の顧客はナショナルの初代会長、松下幸之助であったのは有名な逸話である。

こうして長い時を経てようやく貧しい庶民にも手が届く、本物の大衆車が登場したのである。


丸みを帯びたスタイリングの軽く剛性に優れたモノコックボディーに、最高出力16馬力を発生する空冷直2・2ストロークのエンジンを後部に載せたRR方式のエンジンレイアウトを採用。…発売当初のモデルは、少し飛び出たヘッドライトから「でめきん」の愛称が付けられた。


昭和34年9月、初のバリエーションモデルとして「コンバーチブル」が追加発売。同年12月には商用モデルとなる「コマーシャル」も追加され、昭和36年には最高出力が18馬力に強化された。


昭和36年9月、上級グレードの「デラックス」を追加発売。この頃のモデルからヘッドライトの周りが変更された。またこの昭和36年型は順調に売れ行きを示し、17000台もの売上を叩きだしている。


昭和38年8月、「コマーシャル」に替わる商用モデルとしてライトバン仕様の「カスタム」が発売。同年12月には「スーパーデラックス」も追加発売される。


昭和39年4月、電磁式オートクラッチ車を追加発売。同年7月には潤滑方式が分離式となり、最高出力が20馬力に強化。

しかしけた外れの高性能でかつ小型のホンダN360が発売されるとこれ以後スバル360は売れ行きが伸び悩み、軽自動車販売数のトップの座をついにホンダに譲り渡してしまった。


昭和43年11月、スポーティーグレードの「ヤングSS/ヤングS」を追加発売。「ヤングSS」に搭載されたエンジンは、ソレックス・キャブレターを2基装備し、最高出力も36馬力にまで強化された。標準車系も25馬力に強化。

しかし基本設計の古さからくる陳腐化は否めなかった。


昭和44年8月、新型となる「R-2」へモデルチェンジ後も併売されたが、昭和45年4月に生産を終了。

こうして大衆車第1号の歴史は幕を閉じたのである。


登場作品

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