人物像
帝国海軍大佐 1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日 満84歳没 戦後は航空自衛官、政治家となった。 真珠湾攻撃や343航空隊で有名な軍人。
源田サーカス
戦前は、戦闘機パイロットとしてアクロバット飛行で日本中を沸かせた。人呼んで源田サーカス。後に航空幕僚長になってからはその経験からブルーインパルスを打ち出した。
単葉機の開発や急降下爆撃の研究などパイロットとしての研究は幅広く、海軍の航空政策に貢献した。小型の単座急降下爆撃機を主張して、大型を主張する戦闘機無用論とは対立しているが、爆撃重視ということで源田も戦闘機無用論者と見なされることがある。
パイロットから身を引いてからは参謀になったが、制空隊を考案して実戦で戦闘機の新たな価値を証明するなど、航空戦略の歴史に大きな影響を与えている。
戦争がなかったので戦闘機パイロットとして実戦に参加することはなかったが、それは同世代の戦闘機パイロットたちも同じであるから、言うだけ愚かである。
源田艦隊
源田は真珠湾攻撃を立案したことで世界的に有名な参謀である。海軍兵学校の同級生であり親友の淵田美津雄を攻撃隊の総隊長に迎えて、成功に向けて空母機動部隊の第一航空艦隊は猛特訓した。源田の意見の多くが採用され、第一航空艦隊は別名源田艦隊と呼ばれた。また真珠湾攻撃の参加者は、後に真珠湾の精鋭と呼ばれるようになる。
無敵の強さを誇ったが、源田の反対を無視して決行されたミッドウェー作戦で壊滅。作戦中に攻撃隊を発進させるべき場面で、着艦を待つ戦友を見殺しにできずに、源田が着艦優先を上申したことも敗因の一つである。
その後は軍令部で、第一航空艦隊の再建、T攻撃部隊の考案などしているが、どちらも錬成中に前線投入され、源田の構想は実現していない。ちなみに台湾沖航空戦で投入されたT攻撃部隊は大艦巨砲主義者の福留繁長官の意向でT攻撃ではなく、夜間攻撃に使われて壊滅している。零戦や銀河など航空機の防弾を施し始めたのは源田で、防弾とその重量による性能低下で様々な議論があった。
軍令部で航空本部から桜花案を受け取り、検討が重ねられたが、その危険性から実行には踏み切らなかった。この時期に神風特攻隊も始まったが、軍令部がその指示を始めたのは1945年2月の第五航空艦隊の編成からであり、源田は最後まで特攻を命じることはなかった。ちなみに源田が起案を担当した電報が、特攻開始前に中央で用意され神風攻撃隊の名前もあるので、これを特攻の指示とする主張があるが、内容は発表の相談のみであり、特攻の事後に送信されているので時系列などを無視したトンデモ論である。
343航空隊
1945年1月、343航空隊、通称剣部隊の司令に着任。源田の構想で編成された紫電改を駆使した制空部隊である。編隊戦闘、情報戦に力を入れて訓練し、当時の厳しい戦局で無類の強さを誇り、交戦した米戦闘機隊の報告には「かつて経験したことのない恐るべき反撃を受けた」とその衝撃が語られている。
源田は部下たちからオヤジと呼ばれて敬愛されており、反骨者の菅野直でさえ心服していた。源田も士官、下士官を問わずにかわいがっている。
軍令部から343空に特攻の命令がきたときには、志賀淑雄少佐の「私が最初に行きます。源田司令は最後に行ってください。ただし、命令してきた軍令部の参謀は最初に連れて行きましょう」という言葉に源田は同意して上に抗議したが、軍令部からはその返事が来なかった。源田は最後まで部下から特攻を出さずに、原爆への特攻命令にも自分を一番機と決めて譲らなかった。志賀は源田を最高の飛行機乗りで戦術家だったと絶賛し、他の部下からも「作戦指導は神業だった」「常に科学的で合理的だった」など評価は高い。
戦後
戦後は航空幕僚長になり、50歳を過ぎてジェット戦闘機に乗り、航空自衛隊に大きな影響を残している。ブルーインパルスとその東京オリンピックでのフライト。FX問題ではグラマンとロッキードを巡る政争に巻き込まれる。
その後は参議院議員になった。真正の保守で、左翼全盛期に尊皇や国防力強化を堂々と唱えていたので、反保守勢力からのネガティブキャンペーンは数知れない。しかし、保守層からの支持は絶大で、昔の部下や同僚にも支えられて4期連続で当選している。三島由紀夫も源田に心酔していた。
最後は343空のあった松山で、終戦記念日に人生の幕を閉じた。
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