地名
ニーダーザクセン州にある都市
潜水艦の建造で知られるノルトゼーヴェルケ(北海造船所)がある。
ドイツ海軍の軍艦
以下の軍艦がエムデンの名を冠した。
- ドレスデン級小型巡洋艦二番艦エムデン
- ケーニヒスベルク級軽巡洋艦 (初代)三番艦エムデン
- エムデン級軽巡洋艦のエムデン(同型艦無し)
- ケルン級フリゲート二番艦エムデン
- ブレーメン級フリゲート四番艦エムデン
ドレスデン級小型巡洋艦エムデン
(メイン画像)。
第一次世界大戦が始まり、暗雲立ち込めてきた青島をエムデンは1914年8月7日に出港し、ボナぺ島でドイツ東アジア巡洋艦戦隊と合流した。その折に艦隊戦力はアジアに展開している連合国海軍に比べ劣勢であり、インド洋で艦隊が行動すれば大量の石炭が必要である為に南アメリカを回り本国に帰国する事を決意した司令長官マクシミリアン・フォン・シュペー中将に対してミュラー艦長は、艦隊への継続的な補給が困難であるインド洋に軽巡洋艦を最低一隻でも派遣してドイツ海軍の存在を印象付け、イギリスの植民地であるインド人民に好印象を与える事を提言。それを認められ艦隊と別れたエムデンはインド洋を中心として伝説的な通商破壊を開始した。
その活動は30隻以上の商船を撃沈・拿捕したばかりか、マドラス島の石油施設を砲撃し、ペナン港では大胆不敵にも夜間港内に侵入してロシア防護巡洋艦ジェムーチュクを撃沈し、更に港外でフランス駆逐艦ムスケも撃沈するなど神出鬼没の行動で、彼女の捜索に奔走する70隻以上の連合軍艦艇を煙に巻いていた。
しかし、それだけの打撃を連合国に与えながらも、ミュラー艦長の国際法に則った紳士的な振る舞いもあって連合国民のエムデンへの世評には好意的なものも多く、彼女が拿捕・撃沈した商船インダスに自社の石鹸を載せていた会社は「我々の素晴らしい石鹸はエムデンでも使われています」と宣伝するほどであった。
11月9日、エムデンは英通信基地の破壊の為に陸戦隊を上陸させると共に補給船ブレスクから石炭の補給を得る為にココス諸島のディレクション島に投錨した。
だが基地では既に四本のうち一つは偽装の煙突を付けた不審な巡洋艦が停泊しているとの情報は知られており救難無線が発せられていた。更にエムデンには不運な事にたまたま付近をオーストラリアに兵員を輸送中の大船団が航行しており、無線を受けた三隻からなる護衛艦隊の司令官でもある軽巡洋艦メルボルンの艦長は護衛の任務を放棄する事は出来ず、また戦闘旗を掲げた装甲巡洋艦伊吹の要請は彼女が護衛艦隊で最も強力な艦である事から却下し、軽巡洋艦シドニーにその探索を命じた。
エムデンとの会合に向っていたブレスクはその接近を認めエムデンに無線を発したが応答は無く、エムデンもブレスクを呼び出したが応答を得ず、シドニーの出現は付近に敵艦はいないと無線傍受から判断していたエムデンにとって完全な奇襲となった。
9時30分、エムデンは抜錨し、40分に彼女の砲撃から戦闘は開始された。
シドニーはエムデンに対して攻防走と勝っており、またボイラーを休息させていたエムデンは最高速力に必要な蒸気圧を得れず不利な状況であったが、その射撃は正確であり第三斉射で相手の測距儀を破壊し緒戦でのシドニーの射撃を困難にしたものの、優速と強固な装甲でエムデンの攻撃をいなし、強力な打撃力で一方的に打撃を与え続けるシドニーの前にエムデンは破壊されていき、敗北を悟ったミュラー艦長は乗組員を海に投げ出す結果とならぬ為に11時15分、ノースキーリング島に艦を座礁させた。
16時頃にブリスクを自沈に追い込んでシドニーが戻ってきたが、エムデンは戦闘旗を掲げたままの為に再度砲撃が加えられ、ミュラー艦長は戦闘旗を降ろし降伏の信号を送り戦闘は終結した。
捕虜となったエムデン乗組員に対するシドニー側の待遇は好意的なものであり、エムデンの最期を知った各国の新聞もエムデンの活躍を称賛し、中にはミュラー艦長の活躍が失われた事を嘆くものもあったという。
ディレクション島に上陸したヘルムート・フォン・ミュッケ大尉率いる陸戦隊は放置されていたスクーナーで島を脱出し、様々な苦難の末にインド洋・アラビア半島を経由して1915年5月23日にコンスタンチノープルに辿りついている。
艦長:カール・フォン・ミュラー中佐。
エムデン級軽巡洋艦エムデン
第一次世界大戦後のドイツで最初に建造された軽巡洋艦。
船体は電気溶接を多用して軽量化している。
第二次世界大戦では戦争初期に機雷敷設やノルウェー攻略戦に参加した以外は大部分の期間を練習艦として過ごした。
戦争末期には東プロシアからの撤退作戦などを行った。
戦艦少女にはエムデン級軽巡洋艦のエムデンを擬人化したキャラが登場する。