F-86
えふはちじゅうろく
概要
第1世代ジェット戦闘機であり、朝鮮戦争における活躍によりその名を世に知らしめた。
また、世界で始めて空対空ミサイルによる敵機撃墜を経験した戦闘機としても有名であり、開発国のみならず世界各国で使用されたF-86の全てのバリエーションを含めた総製造数は9000機を越える。
日本においても、航空自衛隊がF-86FとF-86Dを採用。防空の要として日本の空を守ったほか、F-86Fは初代ブルーインパルスの機体としても知られる。航空自衛隊による日本名の愛称は旭光(きょっこう)だが、ファンの間ではF-86ということからハチロクと呼ばれることが多い。
そして、実戦へ
F-86は朝鮮戦争ではじめて実戦投入された。ソウルを奪還し、いよいよ反転攻勢という国連軍の前に、新たなる敵が立ちはだかった。中国義勇軍の参戦である。その実態は「義勇軍」にほど遠く、事実上の中国軍であった。
(このあたりは中国国内の政治事情、戦争拡大派と穏健派の政争による)
強敵、MiG-15。
中国軍が投入したのは、ソビエトより供与されたジェット戦闘機MiG-15である。
この後退翼を採用したジェット戦闘機の登場は、「最新鋭であったはず」の国連軍ジェット機を一夜にして時代遅れにした。
中でも、一撃離脱に特化した高い上昇力、一撃必殺を実現する大火力は脅威となった。
大戦中はとりわけ重防御であることを知られたB-29も、たった一回の機銃掃射で撃墜されてしまう事実に、国連軍司令部は蒼白となった。B-29を護衛するべき戦闘機でさえ、ミグから身を守るだけで精一杯だった。
「十分な戦闘機に護衛された重爆で、敵の生産力を破壊する」
ここにアメリカ必勝の法則は崩れ去ったのである。
新たなる翼、その名は『剣』。
新たなるミグの脅威に、アメリカは試作段階を終えたばかりの新型戦闘機、F-86A「セイバー」の投入を決定する。ドイツからもたらされた後退翼のデータを盛り込み、急いで再設計されたF-86だが、またたく間に頭角をあらわした。上昇力や加速では劣るものの、航続距離が長く、空戦ではほぼ互角に渡り合える戦闘機が登場でしたのである。
ここに来て、国連軍はようやく対抗策を手にしたのだった。F-86はA型からE型、そしてF型へと強化されていった。その強さは、15:1の撃墜:被撃墜比で表わされた。
(のちにソ連や中国の資料が公開され、それを受けて4.1:1までに下方修正された)
中台海峡上空にて
F-86は中華人民共和国(共産党)と中華民国(国民党)の紛争にも投入された。ここで初めて空対空ミサイル「AIM-9」が実戦投入され、戦果を挙げた。投入されたミサイルの数が少なく、撃墜数の上で多い訳ではなかったが、
・簡単な改造でミサイルを使用できる事。
・複雑なレーダーを必要とせず、またミサイル自体も軽い。
などの理由により、AIM-9はミサイルの主役となった。
F-86は初めてのミサイル搭載戦闘機にもなったのだ。
日本におけるF-86
発足間もない航空自衛隊は、1955年、F-86F180機をアメリカから供与される。その後、1956年からは三菱重工によるノックダウン生産が始まり、続いてライセンス生産もはじめられた。最終的には480機のF-86Fを配備したが、そのうち45機が作りすぎて使われなかったためアメリカに返納したので、実質の運用機数は435機とされる。
また、1958年より、機首にレーダーを装備したF-86Dセイバードッグを122機導入(一部は部品取り用)。こちらは国内生産は行われず、在日米軍で使用されていた中古品となる。高温多湿な日本での運用とあって故障が相次ぎ、わずか10年程度の運用年数だった。
1961年からは、F-104を導入するに伴い、余剰分となったF-86を地上撮影用カメラを搭載した偵察型として改造したRF-86が18機導入された。運用期間は1979年まで。
1962年以降、主力戦闘機の座はF-104に明け渡しており、また1971年からはF-4EJ>F-4を運用開始。運用部隊も減るに伴い活躍の場を邀撃機から支援戦闘機に移すも、1977年からは国産支援戦闘機であるF-1が登場したことから、1982年の入間基地の機体が退役するに伴い、30年近く日本の空を守ってきたF-86はついにその翼を畳んだ。
ブルーインパルス
いわずと知れた空自のアクロバットチームの初代機体としてF-86Fが使われている。採用機体には、高い負荷をかけるアクロということもあり、オーバーG(機体に設定されている重力加速度超過)を経験していないうえで、機関砲の調子が悪いなどの機体が選ばれ、スモークの噴射装置などの改修を受けた機体がブルーインパルスとして日本各地の空を飛んだ。
東京オリンピック開会式で五輪の輪を描いたほか、大阪万博開会式でEXPO70の文字を書いたことで有名。
ファンの間ではハチロクブルーの愛称で親しまれている。
F-86の兄弟
空軍
F-86A
初期の生産型で、朝鮮戦争投入を果たした第1陣。
最初期の33機(F-86A-1)は機銃口分の空気抵抗減少を狙って電動式ドアが作られていたが、不調が多発したためにプラスチック製フタ(外すときは初弾で突き破る)に変更された。このフタも後に廃止。
続くF-86A-5は5インチHVARを使えるようになった。
F-86B
燃料搭載を拡大し、増えた重量をダブルタイヤ式主脚で補ったもの。生産されず。
YF-93(F-86C)
F-88・F-90に続き、戦略空軍の「侵攻戦闘機計画」向けに試作された。
主翼・尾翼はそのまま使い、レーダーを搭載する(=機首を空ける)ためにエアインテイクを胴体側面に移している。
最も特徴的なのがそのエアインテイクで、通常は胴体から「張り出し」を作るのに対し、YF-93では空気抵抗を抑えるため、胴体にその分の「凹み」をつけてエアインテイクとしている。これはNACAが考案した「平滑型」という形式だったが、のちの試験飛行で迎え角が付きすぎるとエンジンに空気が行かなくなるという欠点が発覚してしまった。
2号機からは通常のように張り出すタイプとされ、1号機もデータ収集のため残されていたが、最後は改修された。試作と同時に生産型(118機)も発注されていたが、「侵攻戦闘機計画」はB-36の金喰い虫っぷりに中止され、また後に夜間戦闘機としても発注されたが、これもF-86Dに統合されて消滅することになった。
YF-95A(F-86D)
F-86をベースに、脅威を増しつつあったソビエト爆撃機部隊に対抗するために開発された迎撃戦闘機。同系列とは言いながらも、実際にはほぼ別物というべき変更が加えられており、部品の共用率は25%ほど(つまり75%は新規設計)なのだとか。
朝鮮戦争に伴う出費のせいで国家財政が悪化し、「新兵器じゃありません。F-86の派生型です。だから予算いいよね?」と言い張るために型番がF-86Dに変更される。レーダーを装備した単座戦闘機ではあったが、操縦とレーダー操作を同時にしなければならないため、操縦の難易度は激高。本当ならレーダー手を同乗させる予定だったのだが、今度は増えた重量で性能が低下してしまうためにそのままになった。
武装は機首下面にMk4「マイティマウス」FFARの24連装ランチャーが内蔵されており、自動制御により斉射できる。のちにモンキーモデル(=輸出専用型)となったF-86Kも生み出されたが、こちらは20mm機銃M24A1の4門装備になっている。イタリアでもライセンス生産され、この経験はフィアットG.91が生み出される土台となった。
F-86E
操縦系に人工感覚装置を取り入れ、水平尾翼を全遊動式としたもの。F-86Aに続いて朝鮮戦争に投入。
F-86F
航空自衛隊でもお馴染みの型。
生産中から前縁スラットを廃止し、付根で6インチ・翼端で3インチ拡大して境界層板を付けた「6-3翼」が適用されるようになり、空戦能力は向上した。これは既生産機にも適用されている。
F-86F-25以降の型は戦闘爆撃機となり、増槽や爆弾も搭載できるようになった。中でもF-35は核攻撃用の低高度爆撃システム(LABS)を装備し、F-40では6-3翼から境界層板を廃止し、スラットを復活させて翼端を延長している。この主翼は6-3翼で高くなってしまった失速速度を低くするためのもので、のちに6-3翼装備機にも適用された。
また、F-86F-1の6機とE-10の4機は、12.7mm機銃M3を20mm機銃M39(4門)に換装してF-86F-2となり、1953年初頭から「ガンバル計画」として7機が金浦に配備され、テストされているが、機銃の発射煙を吸いこんでエンジンストールを起こし、2機が墜落している。
F-86G
急きょJ-47-GE-33エンジンを搭載することになったF-86Dのために割り振られたが、結局すべてD型として統合された。
F-86H
戦闘爆撃機としての適性を高め、かなり本格的な内容になったもの。
エンジンもJ47からJ73に換装され、出力は約1.5倍になって機首も153㎜大きくなった。全体的に胴体も太くなったので燃料搭載量も増えている。
F-86H-5以降は機銃が12.7mmM3から20mmM39の4門となり、H-10からはF-40仕様の主翼に変更された。もちろんLABSを搭載し、核攻撃も可能。
FJ(海軍型)
FJ-1
もともとF-86は、海軍の新型戦闘機として開発されていた機の陸上機型である。
最初のFJ-1は1944年から設計が始まり、P-51から主翼・尾翼などの設計を流用したうえ、エンジンを胴体を貫くように配置していた。
1946年9月に初飛行を遂げたが、1945年に連合軍はドイツから後退翼の研究データを接収し、これがノースアメリカン社にももたらされたため、開発・生産はこちらに転嫁。生産は33機に留まった。
FJ-2
実質上のF-86海軍型。
主翼の折り畳み機構や着艦制動フックを装備した。武装を20㎜機銃に変更した他はF-86に準じるが、この変更が重量増加を招き、性能は低下してしまった。着陸装置(車輪)について難があったため、海兵隊で運用されるに留まる。
FJ-3
FJ-2で問題になったパワー不足をエンジン換装で解決した型。
FJ-4
本格的な改設計を受け、FJ(F-86)の系統でありながら、もはや別物に。
図面もほぼ新作同様となり、それまでとの共通性もほとんど無し。
戦闘機型FJ-4は海兵隊で、海軍では戦闘爆撃機として強化したFJ-4Bを運用している。FJ-4Bは主翼ハードポイントが6か所となり、さらに核爆弾の搭載も可能。
その後のノースアメリカン
F-100「スーパーセイバー」を送り出したノースアメリカンではあったが、その後は経営が振るわず、完成させた機体も軍民問わずに不採用・不採算が相次いだ。戦闘機としてはF-107「ウルトラセイバー(非公式名称)」を最後に戦闘機事業から撤退し、戦闘機の名門、ノースアメリカンはその歴史に幕を閉じたのである。