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概要

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)

生没年:1820年5月12日 - 1910年8月13日

「クリミアの天使」、「ランプの貴婦人」と呼ばれ親しまれてきた女性。

よくナースに対して比喩される「白衣の天使」という呼び名は元々は彼女の異名である。

ナイチンゲールの性格はそんな天使とは程遠い、不撓不屈の精神と激情を孕んだ信念の女性である。

そして一般的に看護師として知られる彼女だが、看護師とは彼女のほんの一面にすぎない。

ほとんどの人はナイチンゲールが看護師と知っていても、先進的な統計学者だと知る人は少ないだろう。

生涯にわたり病人の為に行動し、近代看護の基礎を築き上げた医療の変革者である。

生涯

5月12日、イギリスの上流階級の家庭である両親の新婚旅行中のフィレンツェ(フローレンス)で生まれる。

当時上流階級の女性はあまり教育は行わず、早く結婚して夫に仕えていればよいという考えが主流だったが、父ウィリアムは女性にも教育は必要であるという考えからナイチンゲールにイタリア語・ラテン語・ギリシャ語などの外国語をはじめ、哲学・数学・天文学・経済学・地理、心理学、文学などの本格的な教育を受けさせた。

17歳のある日、彼女は神の声を聞く。それから彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をすることを志した。看護師の道を志望した彼女は独学で勉強し、30歳を過ぎた頃に家族の猛反発を振り切って看護婦の訓練所に入った。

具体的な看護実務を学んだナイチンゲールは、間もなくロンドンの婦人病院の運営責任者となり、そこにおいてナイチンゲールは看護を行うのみならず、施設のさまざまな問題点を見つけて改善し、病院運営の効率化・健全化まで成し遂げることに成功する。

その事を聞き、旧知であったシドニー・ハーバート軍務大臣からクリミア戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼された。

彼女が看護師として働いたのはこの戦時中の2~3年という短い期間だったが、その間の活動は完全に常軌を逸していた。

病人の大群が雪崩込んでくれば、彼女は24時間ぶっ続けで立ち働いた。昼は怪我人につきっきりで看病し、夜には傷ついた兵士たちの元へ灯りを持ち、何千人という患者たちの見回りを行った。戦場では時に馬上で何日も過ごし、時に何十キロ先の小屋まで歩いて仕事をしたこともある。体力の限界がきて熱病にかかっても無理して働き、完全に動けなくなってもメモなどを書いていて、そのせいで神経組織を破壊され、心臓も弱まっていったが、それでも彼女はずっと働き続けた。

軍医達はおしなべて敵対的だったが、結局彼女の気迫に根負けし従うようになった。衛生環境の改善が大事だということを軍の上層部に理解してもらうため、ナイチンゲールはこの野戦病院での死亡統計などを視覚的にわかりやすいグラフとしてまとめ提出した。ヴィクトリア女王はハーバートに対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じ、彼はすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。

彼女と看護師一行が病院に入って6ヶ月後、死亡率は42%から2%と目覚しく改善された。

クリミア戦争終結後、37歳の時に無理が祟り心臓発作で倒れてしまい、以後は病床生活をおくる。

ここから昼間は看護活動や後身の指導に当たり、夜は本を書くという生活を送った。クリミア戦争での劣悪な衛生環境において、戦争による負傷とは関係のないことで亡くなっている人が多いことを綴った「英国陸軍の健康と能率、病院管理の覚書」と、史上最初の看護についての専門書籍「看護覚え書」などを発行した。彼女は生涯に150の本と12000通の手紙を書いていたとされる。

1901年には完全に目が見えなくなり、1910年8月13日に90歳という年齢で亡くなった。

逸話

  • クリミアへ行く前に何が不足しているか聞いたところ、「全く必要ない」と言われた。信用できずマルセイユでありったけの日用品を購入した。彼女の勘は正しく、必需品は全く足りていなかった。
  • 病院内の衣服・ベットの洗浄が殆ど滞っていると聞き、彼女は近くのボイラー付の家を買い兵士たちの妻を雇って洗濯させた。費用は彼女の個人資産で賄われた。
  • 彼女の提案で政府から物資が届いたが、役員達から「役員会がないため解梱できない」と言われ、結局開封に2週間かかった。後に同じような出来事が起こった。彼女はヴィクトリア女王の勅命だといった。役員がもたついている間に彼女は開梱を命じた。
  • 兵士たちの軍服が足りておらず、役員に尋ねたが欠品を補うのは自分の仕事ではないと言い張った。彼女は個人費用で兵士たちの軍服を補った。
  • 500人の兵士が搬送される知らせを受け、既に余裕のない病院内は大騒ぎになった。ナイチンゲールは旧兵舎を改装すれば十分に収容できると考えたが、関係者は責任の所在を誰にするかでもめていた。彼女は軍務大臣に使者を送り、返事を待たずに人を集め建物を改装した。給料および器具等は彼女の費用で賄われた。
  • 帰国後、急に動かなくなる四肢や精神の不調が彼女を苦しめた。医師たちは口をそろえて「長期間の休養を取らなければならない」と言った。しかしやるべき事がたくさんあったのでその相談には乗れなかった。医者の忠告も、家族の懇願も、友人の進言も彼女は耳を貸さなかった。「狂気の沙汰だ」という言葉にのみ彼女は頷いた。
  • 彼女の行動力は異常そのもので、周囲の誰もがついてこれなかったが、彼女にしてみれば周囲の人間はあまりにも愚鈍だった。協力者のシドニー・ハーバートがあまりの激務に彼女に懇願したが、彼女は途中で止めることを許さなかった。その後シドニー・ハーバートは過労死した。
  • 超人的な仕事量をこなし、相手が上司だろうが政府高官だろうが必要とあらば直言を叩きつけ、女王をも味方につけたことから、畏敬と揶揄の双方を込めてオールドバリントン通りにあった彼女の自宅兼事務所についたあだ名は「小陸軍省」。文字通りのワンマンアーミーである。
  • 年老いてゆくと彼女は若い頃のような苛烈さとは見違えるように穏やかな性格になった。一日中笑顔でいながらベッドの上で余生を過ごした。

業績

  • 大抵が貧しい病人をようやく収容するための最低限の慈善的施設に過ぎなかった当時の病院を、部屋を広く確保し、天井は高く、窓はベッド一つにつき一つ設置するというように提案した。この構造は今日の病院へも実際に取り入れられている。ナースコールや病室にお湯と水がでる水場を設けよと提案したのも彼女である。
  • 兵士たちが死ぬ原因のほとんどが野戦病院における不衛生な環境であることを証明し一掃することで数多くの兵士の命を救った。
  • 陸軍の衛生状態や食事、兵舎設備などについての統計をまとめ、分析を行った。そのデータをもとに上層部を糾弾し、陸軍の衛生政策や組織の変革を提案し、実現した。
  • 女性の社会的地位を上げるよう試みた人権家でもあった。日本における女子教育の先駆者と評価される津田梅子女史と面会し語り合ったと伝わっている。
  • 「看護」を確立させた。以前まで職業看護師は存在せず、病人は身内で看病するか教育も受けていない最下層の女性たちがする卑しい仕事と認識されていた。「看護覚え書」で看護の在り方を説き、ロンドンに看護婦養成所を設立し、本格的な看護教育学を始めた。後にナイチンゲール方式と呼ばれる教育システムは今日でも活用されている。

関連タグ

ナイチンゲール

看護師 看護婦 ナース

ナイチンゲール(Fate):フローレンス・ナイチンゲールもモデルとしたサーヴァント

フィレンツェ:彼女のファーストネームの由来。

赤十字:彼女の行動に刺激をうけたアンリ・デュナンによって設立。

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