練習帆船「日本丸」
日本の練習帆船、新旧の二隻がある
初代日本丸
鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」の沈没事故を契機に建造された練習帆船。
当時日本の商船、水産系学校で多額の維持費を要する本格的な練習船を運航できていたのは東京高等商船学校(現東京海洋大学)の「大成丸」と神戸高等商船学校(現神戸大学)の「進徳丸」ぐらいのもので、地方の学校では一般商船への便乗実習や、小型の練習船にならざるを得なかった。
そんな中で実習生全員死亡の惨事となった「霧島丸」沈没事故が発生し、地方校の学生に安全で有意義な実習を提供するための大型帆船を求める世論が沸き起こった。
かくして国有の大型練習帆船二隻の建造と、これを運航し、地方校の学生の実習を請け負う「航海練習所(現海技教育機構)」の設立が決定された。
昭和5年1月、神戸川崎造船所で第1船が進水、「日本丸」と名付けられ、同年2月に進水した姉妹船は「海王丸」と名付けられた。
その後南太平洋を中心に実習航海に従事するも、昭和18年、太平洋戦争の激化に伴う船員教育の効率化政策の一環として航海練習所が「航海訓練所」に改組、練習船隊に前述の「大成丸」、「進徳丸」が加わって四隻体制となった。また情勢悪化に伴い外洋での帆走実習は既に不可能になっていたため、全船で帆装が撤去され、瀬戸内海などで物資輸送を兼ねた実習航海を行った。
この時期の実習は練習船の受難として語られることが多いが、本来の実習航海では行わない本格的な荷役作業(貨物の積み下ろし)を含む実習となり、結果としては大変実践的で有意義な実習になったとする証言もある。
僚船「進徳丸」が空襲により大破着底、「大成丸」が触雷沈没する中、本船と「海王丸」は戦争を生き延び、戦後貴重な大型船として、実習航海を兼ねた在外邦人の引き揚げ輸送に従事した。
昭和27年、帆装が再設置され、本来の実習航海に復帰した。その後昭和59年の退役までに90万海里を航走し、延べ11500名の実習生を育てた。
現在は横浜市みなとみらい21地区の日本丸メモリアルパーク内にある横浜船渠第一号ドックに係留保存されている。
また、本船は帆船ながら帆装を取り外していた時期が長く、現役の期間も大変長かったことから、本船の主機の稼働時間54年2月20日4時間7分は、舶用エンジン最長としてギネスブックに登録されている。
日本丸Ⅱ世
初代の老朽化に伴い、昭和59年に建造された大型練習帆船。帆走性能を大幅に向上させ、世界有数の高速帆船として名を連ねている。そもそも帆船による航海実習自体が世界的に下火になりつつあり、国費で大型帆船を建造することが少なくなったことから、全長は世界最大の帆船「エスメラルダ」にわずかに3メートルを譲る二番手でもある。
また、可能な限りの居住性の向上も図られ、
- 女子実習生居住区の設置
- 実習生の体格の大型化に対応し、ボンク(寝台)の全長を20㎝延長して2mとした
- 造水能力の向上により船内で洗濯機の使用が可能に
- 全体に空調設備を完備
などの改善が行われた。
現在も現役にあるものの、既に船齢33を数え、海技教育機構の練習船では最高齢となった。それにともない先代ほど深刻なものではないにしろ、各所に老朽化を生じている。帆船の建造には多額の費用がかかることと、前述の通り世界的に帆船による実習が行われなくなりつつあることから、代船の計画は現時点では全くない。
居住性の改善も今や過去の話であり、本船と海王丸の他の練習船は全て汽船であることから、帆船としての制約も相まって、練習船隊の中でもずば抜けて居住性が低い。具体例としては
- 造水能力が低く、海水風呂など清水(真水)使用が制限が大きい(汽船では遠洋航海以外は2日に1回の清水入浴、および毎日のシャワーが使用可能)
- 実習生居室が8人部屋(汽船は6~4人部屋であり、空きボンクがあることも多い)
- そもそも居住区が狭い(帆船であるため、大きな上部構造物を作れない)
- 帆の操作には人手が必要なため、帆走中は非番でも配置につくことが多い
等々がある
そのため「太平洋の貴婦人」の愛称とは裏腹に、実習生からは「奴隷船」「見て天国乗って地獄」などと揶揄されている。