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長野業正の編集履歴

2016-12-15 08:52:28 バージョン

長野業正

ながのなりまさ

長野業正とは、室町・戦国時代に活躍した日本の武将である。

概要

1491年、上野国西部を治める豪族の長野家に生まれる。

長野家は山内上杉家に従属する勢力で、上野国の要衝・箕輪城を本拠地としていた。

当初は関東管領・上杉憲政に従い、急速に勢力を拡大する後北条家と戦っていたものの、山内上杉家は後北条家の武力の前に領国の武蔵国から徐々に駆逐されていき、最終的には『河越夜戦』を初めとする決戦に大敗を喫したことで滅亡、憲政も越後の長尾家を頼って落ち延びてしまう。


武蔵国を得て更に力を増した後北条家の脅威に真正面からぶつかり合うことを強いられた業正だったが、長野家を取り巻く状況は更に悪化の一途を辿っていく。

後北条家は上野国南部の長尾・旧上杉派勢力を次々と従属させ、更には国境を接する今川家・武田家と結託、戦国最強の軍事同盟と名高い『甲相駿三国同盟』を結んだことにより、長野家は南は後北条、西は武田と強大な勢力の脅威に挟まれることとなってしまう。

しかし、長野家も北の越後国を治める長尾家から支援を受けつつ、同じく後北条家の脅威に晒されていた宇都宮家・佐竹家・里見家などの他の関東諸勢力と連携し、これに対抗した。

また、外交面だけでなく、領国においても配下の国人勢力『箕輪衆』と婚姻関係を結ぶことで結束の強化を図るなど、あくまでも徹底抗戦の構えを見せた。


上杉憲政の養子となって上杉家の家名と関東管領の職を引き継いだ長尾景虎(後の上杉謙信に従い、小田原討伐に参加した他、北信濃国から侵攻を図った武田信玄の軍勢を幾度も追い返すなど、その存命中は後北条家の勢力拡大を阻む最大の障壁の一つとして大いに奮闘・活躍した。

しかし、武名を轟かせた業正も寄る年波と病には勝てず、1561年に死去。

長野家の家督は次男の業盛が継ぎ、父に劣らぬ武勇と意欲で箕輪衆を率いて戦うが、武田信玄の猛攻の前に衆寡敵せず自害、箕輪城は陥落し、ついに長野家は滅亡してしまった。



関連タグ

戦国時代 武将 関東勢

上杉謙信 武田信玄 北条氏康

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