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白起の編集履歴

2016-12-27 03:27:24 バージョン

白起

はくき

中国戦国時代、秦昭襄王の頃に活躍した常勝不敗の名将。戦場で敵を倒した数に定評がある。

戦績

出身は郿。素性については謎。楚の王孫である白公勝の末裔説もある。


昭襄王13年、秦の宰相魏冉(穣侯)に抜擢されて韓を攻め、何と翌年には総大将として伊闕で韓魏連合軍を打ち破る。この時敵兵を24万人斬り、さらに5城を落としている

司令長官ともいうべき国尉に任じられると、さっそく韓の安邑から乾河までの城を抜き、魏を攻めて垣城ほか大小61ヶ所を攻略した。さらに和氏の璧事件の後、趙の北辺に侵攻して光狼城など4邑を奪い、邯鄲に圧力を掛ける。

昭襄王28年、楚侵攻戦に参加し、水攻めによって副都の鄢を落とす。破竹の勢いで南下し、翌年には楚の首都郢(三国志でいう江陵)を陥落させて王家の陵墓を焼いた。これにより秦は南郡など広域を手にし、帯甲百万と言われた楚の国力は五分の一に減少。この功により冊封され、これ以降は「武安君」とも称される。

楚との停戦が成立すると、今度は魏の戦線に移動。昭襄王34年の華陽の役では、魏冉の指揮の下で魏趙連合に大勝。討ち取った数は13万、さらに趙軍2万を河に沈めた。

その直後、秦首脳部には白起に楚を攻めさせる計画があったが、楚の春申君の説得が功を奏し中止。以後、8年ほど白起が戦場に出てくることはない。


再び姿を見せるのは、恩人の魏冉を蹴落とした范雎が宰相になった翌年。范雎は「遠交近攻」という戦略を打ち出しており、白起もこの方針に従い韓魏を標的として韓の南陽を取った。南陽陥落で韓は国土を分断され、防衛できない上党郡を秦に差し出して和睦。ところが、上党の吏民は秦への従属を拒否し、土地ごと隣国の趙に寝返ってしまう。こうして、上党郡を巡って秦と趙の大戦「長平の戦い」が幕を開ける。

この戦は1年余り続く。長期化した戦局を打破するため、范雎は邯鄲で流言をばら撒いて趙将廉頗を更迭させ、元祖生兵法こと趙括を総帥にするよう仕向ける。敵将が未熟者に交代したのを確認するや、駄目押しで秦は白起を投入。白起の誘い込みからの分断包囲と援軍遮断で孤立した趙括は戦死し、降兵40万は子供を除いて残らず生き埋めにされた。この勝利により、秦の統一を阻める国はもはや無くなったと言っていい。


悲劇の死

白起はもともと魏冉に登用され、親密な間柄であった(『史記』穣侯列伝)。故に魏冉を追放した昭襄王や范雎と折り合いが悪かったらしい。


長平の戦いに大勝した直後、白起は余勢を駆って一気に趙を滅亡させようとした。だが彼がこれ以上武勲を稼ぐことで栄達して政治的発言権を持つことを恐れた范雎は、王を説いて趙と和議を結び、撤兵を指示。激怒した白起は病と称して自邸へ引きこもり、しばらくして停戦破棄した昭襄王が邯鄲を攻めるように命じても聞かなかった。それは感情的な問題以前に、秦に対する恨みを糧として君臣が一体となり富国強兵を行なった趙には必死の覚悟がある。今さら攻撃したところで、勝てるわけがない、という観測をしていたからである(結論から言うとその通り)。


『戦国策』にこの時の逸話が載っている。

趙に侵攻した王齕率いる秦軍は苦戦続きで、戦果を上げられない。昭襄王と范雎は自ら白起を訪ねて、

「昔あなたは伊闕で自軍に数倍する敵を破り、100万の兵を有する楚を相手取って、神の如き用兵の奇跡を見せたではないか。何故敗残の趙などを恐れる?」

と問責した。白起は答えて曰く、

「あの時の楚は君臣が腐敗堕落して、ろくな防備が為されていなかった上、秦兵は軍を家族と思って団結したのに対し、楚兵は家族が気になって戦意がありませんでした。伊闕の折は、韓と魏がそれぞれの思惑で動いて足並みが乱れていました。私は当然勝つべき相手に勝ったに過ぎず、どうして神などでありましょうか」

范雎は恥じ入った。昭襄王は重ねて出陣を命じ、

「病臥しながらでも指揮を取れ。勝利が私の望みだ。出来なければお前を恨もうぞ」

白起は再拝稽首して王に述べた。

「私を屈服させて諸国に敗れるのと、我が策をお入れになって天下を跪かせるのと、どちらが王の名誉でしょうか。今は趙にこだわらず、大局を見て動くべきです。私はたとえ王命に逆らった罰を受けるとしても、軍を辱める将にはなりたくありません

昭襄王は腹を立てて去った。


やがて邯鄲を攻めていた秦軍は魏の信陵君に敗れ、趙攻略は失敗した。敗報を耳にした白起は思わず呟いた。

「王は私の言葉を無視したが、今のこのざまはどうだ」

この発言を伝え聞いた昭襄王は震怒し、白起の爵位を剥奪して一兵卒として流罪に処した。病と称して動かなかったので、強制的に咸陽を退去させられ、郊外の杜郵で自裁を命じられた。剣を手にした白起は自問した。

「私は天に対して、一体どのような罪を犯したのだろう」

やがて思い直して嘆息して曰く、

「死ぬのは当然だ。あの長平の戦で捕虜を40万も騙して殺した、それだけで死に値する」


秦の民は白起の最期を冤罪であると惜しみ、郷邑で祀った。

白起の佐将だった司馬靳(司馬錯の孫)も共に死を賜った。『史記』を著した司馬遷は彼の子孫である。



キングダム

秦国六大将軍の筆頭。

すでに自害して故人である。


六大将軍の中でも最もやりづらい正真正銘の怪物と評されている。

長平の戦いにおいて秦軍の総大将を務め、投降した趙兵40万人を全員生き埋めにするという決断を下した人物でもある。これが原因で、幼少期に人質として趙にいた政が虐げられることになる。


なお、この「40万生き埋め」は史実であり、実際にそこまで多くの数は見つかっていないものの、今なお長平では人骨がゴロゴロ見つかる程で、人類史上一番多くの人を殺した男とさえ言われている。実際、長平の前から何十万人もの首級を挙げており、累計すれば100万人は殺していることになる。

関連タグ

キングダム  六大将軍 秦軍 長平の戦い 公孫起


外部リンク

白起 - Wikipedia

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