白起
はくき
概要
秦国六大将軍の筆頭。
すでに自害して故人である。
六大将軍の中でも最もやりづらい正真正銘の怪物と評されている。
長平の戦いにおいて秦軍の総大将を務め、投降した趙兵40万人を全員生き埋めにするという決断を下した人物でもある。これが原因で、幼少期に人質として趙にいた政が虐げられることになる。
なお、この「40万生き埋め」は史実であり、実際にそこまで多くの数は見つかっていないものの、今なお長平では人骨がゴロゴロ見つかる程で、人類史上一番多くの人を殺した男とさえ言われている。実際、長平の前から何十万人もの首級を挙げており、累計すれば100万人は殺していることになる。
史実の白起
昭襄王に仕えていた中華屈指の用兵家である。趙・韓・魏・楚を相手に縦横無尽の戦いを繰り広げ、秦の領土を大いに拡大させた。
情け容赦の無い戦い方をする人物であり、当時の秦が首級の数で論功を決めていたことも相まって戦場では何十万もの敵兵の首を挙げた。
楚との全面戦争となった鄢郢の戦いでは激戦の末に楚の首都であった郢を陥落させてしまった。このため楚は首都を陳に移したほどである。
春秋戦国時代において最大規模の戦いとなった長平の戦いにおいては数では圧倒的な趙軍を緻密な戦略で打ち破り、40万の軍勢を捕虜にした。しかし、秦軍には40万もの人間に喰わせる食料はなく、反乱を起こされる危険もあったためやむなく白起は少年兵200名あまりを帰した後に残る40万人を生き埋めにして殺すという大虐殺に踏み切った。この長平における大惨敗によって趙は大いに弱体化してしまうことになる。
並ぶ者のいないほどの功績を挙げた白起将軍だが、それは同時に政敵を作る結果にも繋がった。秦の辣腕政治家で史記にも個別に語られる名宰相・范雎も功績の大きすぎる白起を危険視しており、彼の提案で白起は前線から度々遠ざけられるようになった。
これに不満を持った白起は病と称して職務復帰を拒むようになった。やがて趙を攻めた秦軍が魏の信陵君・楚の春申君に敗北すると昭襄王たっての願いで復帰を命じられたがこれも拒んだ。その後も昭襄王の命に逆らい続けたため、堪忍袋の緒が切れた昭襄王によって自害を命じられた。
最初は「何の罪があって私は自害せねばならん?」と使者に問うた白起だったが、しばし考えた後に「やはり私は死ぬべきだ。長平の戦いで降伏した兵士を40万人も殺した私に罪がないはずがあろうか。これは天罰だろう。」と述べて自殺した。
秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に祠を建てて弔った。