賈充
かじゅう
概要
(217年〜282年)
司馬氏の腹心。西晋衰退のきっかけである八王の乱を引き起こした賈南風の父。
司馬昭の命令で諸葛誕の様子を窺うために使者に赴き、諸葛誕に叛意があることを司馬昭に報告する。
魏の皇帝曹髦が司馬氏から実権を取り戻そうと挙兵した際に、部下成済に命じて曹髦を殺害。
晋成立後、司馬炎にも仕える。同様に貢献した羊祜・荀勗・裴秀・王沈らとともに、功臣として賞賛され賈充の功績は筆頭に挙げられた。
晋の時代になると要職である司空・尚書令等を歴任。
呉征伐には執拗に反対したが、総指揮官を任され杜預達の快進撃もあり、結果的に成功した。
その後、政敵を排除したり、賄賂を駆使して晋での地位を揺るがないものとした。
魏の滅亡に加担し、皇帝殺しという大罪を犯しておきながら無罪放免。それどころか、晋の成立に貢献したとして政治の中心に関わり続けたなんとも恐ろしいヤツ。
だが彼の死後、その晋も娘(賈南后)が原因で滅亡の道を突き進み、賈氏も一族皆殺しの末路を辿る。
彼自身は天寿を全うしており、諡(おくりな)は「武公」(当初の諡は余りよろしくないものであったが、司馬炎の一言によって「武帝」に変わったらしい)。
皇帝殺しの詳細
賈充は成済に「あとから罪には問わない」と約束し、成済に皇帝曹髦を殺害させた。
しかしその後、司馬昭は皇帝殺害は自分の意志ではなく、成済の単独犯であるとして、成済の三族皆殺しを郭皇太后に上奏。
対して陳泰は賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと司馬昭に訴えたが、結局は実行犯の成済が罪を被せられ処刑され、賈充は何の罪にも問われなかった。
成済は兄と共に悪口雑言を言い散らしたが、矢で射殺され、後に三族皆殺しとなった。
妻(李婉と郭槐)
賈充の先妻は李豊の娘である李婉である。李婉は李豊が夏侯玄らと司馬氏排除の陰謀を企てたことが発覚して一族皆殺しになった際、李婉も離縁されて(シャレではない)流罪となった。その後、晋建国直後に恩赦があり、李婉も許されたが、賈充は既に
郭淮の姪である郭槐を後妻として結婚していた。
司馬炎は賈充にこの二人の夫人を正妻として置くことを許したが、李婉は賈充の家には戻ろうとしなかった。
賈充の功績に配慮して李婉を呼び戻し、二人の夫人を置くよう詔を下した。しかし、郭槐が賈充の胸ぐらを掴んで反対したため、賈充は辞退した。さらに郭槐が李婉を亡き者にしようとしたが、賈充はそれを察すると郭槐を別居させようとした。賈南風が皇太子妃に立てられると、郭槐は娘と共に別居した。賈充は李氏に屋敷を用意し往来するようになったが、結局復縁しなかった。
ある日、賈充の後妻の郭槐は賈充に、李婉がどんな女性か見に行きたいとねだった。賈充は「あれは強情で才気があるから行かないに越したことはない」と行ったが郭槐はそのまま出かけた。
しかし、豪奢な支度をした郭槐を迎えようと李婉が家から出てきた途端、郭槐はその姿を見るや足から力が抜けて跪き、再拝してしまった。帰ってこのことを賈充に話すと賈充は「だから言ったじゃないか」と答えたという。(『世説新語』より)
この一方で郭槐にはこんな話も伝えられている。ある日賈充が家に帰ってきた時、自分の息子賈黎民を乳母が抱えていて、賈充が賈黎民をあやしていたのを賈充が乳母とデキていると思い、郭槐はその乳母を殺した。賈黎民は泣き止まず他人の乳を飲まずにとうとう死んでしまった。
もう一人賈充ど郭槐には男の子がいたが、同じように嫉妬心からその子の乳母を殺して結果的にその子を死に追いやったため、賈充が死んだ時男子はおらず、郭槐は次女賈午の子である孫の韓謐を無理やり賈充の跡継ぎにして賈謐と改姓させた。