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郭淮の編集履歴

2011-04-17 23:17:04 バージョン

郭淮

郭淮(かくわい、? - 255年)は、中国、後漢末から三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。『三国志』魏志に伝がある。字は伯済(はくせい)。

并州太原郡陽曲県の人。郭全の孫、郭縕の子、郭配(賈充・裴秀の舅)・郭鎮の兄、郭統の父、郭正の祖父。郭奕、郭槐の伯父。



概要

建安年間(196年 - 220年)に孝廉で推挙され、平原の丞となった。


曹丕は五官将となると郭淮を召し出して門下賊曹に加えたが、間もなく曹操について漢中征伐に随行した。漢中制圧後は征西将軍夏侯淵の司馬としてその地に残り、ともに劉備に備えたが、劉備軍の侵攻の際は病気で参戦していなかった。219年の定軍山の戦いで夏侯淵が討たれると、軍は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、トウ寇将軍張郃に司令官を代行させ、翌日の劉備の侵攻も機略を用いて防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃に節を与え漢中駐留軍の司令官とし、郭淮をその司馬に任じた。


曹丕(文帝)が王位についたとき、郭淮は関内侯の爵位を与えられ、鎮西長史に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し、左将軍張郃と冠軍将軍楊秋を監督した。周辺の賊を討伐し、関内を平和とし、民衆を安んじた。


文帝が帝位に就くと、祝賀に出向いたが、都へ向かう途上で病気にかかり、彼は都までの道のりと日数を計算した上で療養に努めた。ところが、彼が参内した頃には既に祝宴が行われていたことで、文帝は彼を咎めた。古の例を取って非難する文帝に対し、郭淮はそれを逆手にとって弁明した。そのためかえって文帝に気に入られ、仮の雍州刺史に任命された。その5年後、郭淮は正式な雍州刺史となった。何度も羌族らの反乱を鎮圧したため、降伏者がたびたび訪れてきたが、予め相手の親族関係などを調査し、心をつかんだ。


255年逝去。大将軍を追贈され、貞侯と諡された。郭統が跡を継いだ。郭淮の一族は、晋代にはそれぞれ高官に上ったという。

小説『三国志演義』では253年に姜維の放った矢によって落命しているが、これは創作である。


登場作品における郭淮


真・三國無双6


新勢力『晋』のキャラクターの一人。

病弱で、せき込むことが多いが、戦場では際立った働きを見せる。

夏侯淵や司馬懿に恩があり、魏への忠誠は人一倍強い。

また、愛妻家でもあり、会話の節々からソレを読み取る事が出来る。


病弱でやつれた外見だが、その実はパワータイプで武器は連弩砲と云うギャップがプレイヤーを驚かせた。


声:蒲田哲 一人称:私(わたくし) 身長:176cm


無双乱舞1で体力を吸い取り回復が出来る為、死にそうで死なない。

故に修羅モードでの武器集めにも重宝する事となる。

「死神ではないぞ。一応生身の人間ではある…はずだ」

「わざわざ私を雇うとは……ごふっ……。随分と際物好みな人だ」

等の台詞から、自身が人間ばなれしている事(際物)を自覚している様子。


「あの世への道連れ…見つけた…!」


関連イラスト

郭淮~華と扇~迎撃用意


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三国志 三國無双 真・三國無双 無双

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