曖昧さ回避
歴史
古くは「百の姓」という言葉の通り、一般庶民を表す言葉であった。
中国では天下万民民衆一般を指す意味として使われており、現在でも「老百姓」は一般庶民のことを指す。
日本でも同じように、古代末期以降は農民に限らず一般庶民を意味する言葉と同様な意味で用いられていた。律令制下では、一般戸籍に編戸された班田農民や地方豪族や官人貴族らすべて百姓とされていた。
やがで時代が下り、江戸時代には「農民」を表す言葉に近づいていく。
しかし内実は、都市民(町人)以外の全ての職業民を内包しており、医者だろうと漁師だろうと百姓扱いであった。
その中でも、自分の土地を持たない人間は「借家」「水呑」とされ差別された。
だがこうした人たちの中には、投資や商売に成功した大金持ちが少なからずいたことが分かっている。江戸時代は基本的に土地持ちのみが年貢を納めたので、あえて土地を持たず税法上は「貧乏」だった金持ちが大勢いたのである。
現代
現代においては、基本的に農家を営み農業に従事する人のことで、農民のことである。
いつの頃からか「田舎者」やあかぬけない人、情趣を解さない人のことを侮蔑する単語としても使われるようになり、差別用語や放送注意用語になっていることもある。取り扱いには注意が必要である。
ただし、現実の農業従事者は百姓という呼称を差別的だととらえているとは限らず、むしろ一部の篤農家は自らを誇って百姓と自称する向きも見られる。こうした篤農家は歴史的百姓層が自らさまざまな生業を兼ね、またモノカルチャー化を避けて多様な農作物を栽培したことの復権にアイデンティティーをおく者もいる。
彼らは生業や農作物の多様性に「百姓」の「百」の字義を投影し、しばしばこうした多様性を持った農業を行う者こそが「百姓」であると定義する。つまり「百の物事に通ずるから百姓」である。
この呼び名の通り、実際の農家には農作物を作るだけでなく、農作業機の修理や倉庫や小屋の建設まで幅広く自分で行う者もいる。もちろんそれらを行うにはそれ相当のスキルがいるが、収入の安定しない農家ではいかに経費を抑えるかが重要になってくるので自分で何でもできることに越したことはない。だが、農家は体が資本であるため無理は禁物である。