ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

下津井電鉄の編集履歴

2018-09-23 01:51:54 バージョン

下津井電鉄

しもついでんてつ

岡山県南部、児島半島を中心とした地域を営業エリアに持つバス会社。

略称・愛称は下電、シモデン。鉄道路線を有していたが、1991年に廃止された。


瀬戸大橋線が開通するまで岡山市内と児島を結ぶ高速バス路線が高収益を上げ、その利益で赤字の鉄道線を支えていたが、瀬戸大橋線開通によって大打撃を受け、鉄道事業からは撤退した。以後は岡山市近郊の路線バスに注力している。


岡山県内は中小バス会社がひしめき合い、、互いに合従連衡や対立を繰り返してきたが、下津井電鉄は両備グループとの関係が比較的良好だが、中鉄バスとは対立しやすい。


鉄道事業

路線名下津井電鉄線。国鉄宇野線茶屋町駅と下津井駅を結んでいた。沿線のモータリゼーション進行により、1972年に茶屋町-児島間を廃止。この時から他の鉄道線とは接続しなくなった。児島-下津井間は、道路事情が劣悪でバスによる代替輸送が不可能なために残された。


部分廃止後、残存区間では全線1閉塞化、ワンマン運転の実施、下津井駅以外の無人化を実行、車両も車齢が若く手のかからない6両を残して全車廃車、鉄道部門の従業員は10人だけで回すという徹底した合理化を行った。その結果、鉄道事業の赤字をバス事業などの他の事業で補填できる額まで減らすことができた。


1983年に観光列車「赤いクレパス号」を導入。この列車は、それまで稼働させていたモハ1001に専用のヘッドマークをつけて運行させただけのものであるが、その運用の最大の特徴は車両内のどこにでも落書きを許可するというもの。車内は常に、様々な乗客の落書きであふれ「赤いクレパス号」はその正式名称もさることながら「らくがき電車」として親しまれた。書き込まれた落書きは、それこそ便所の壁に描かれるような他愛のないものから、時に気合の入った絵師さんの力作などが描かれていた時期もあった。


1988年瀬戸大橋が開通。これを機に観光鉄道への転身を図るため、観光車両「メリーベル号」を新造。児島駅の移転新築や下津井駅構内の整備、鷲羽山駅へメリーベル号導入により余剰となった車両を流用した待合室の設置などの様々な改良工事をはじめとして、イベント列車の運行などの増収策も図られたが、観光客は思ったほど伸びず、更に瀬戸大橋線の開通で児島-岡山間がわずか30分で結ばれるようになると頼みの綱だった高速バスの乗客が減少、岡山-高松間の高速バスも瀬戸大橋の通行料金の高さに起因する運賃の高さなどから失敗に終わり、鉄道事業を支えきれなくなった。更に劣悪だった道路事情も瀬戸大橋の資材運搬道路・工事用道路が一般開放されたことから好転したことで、路線バスでの代替が可能になったことから1991年1月1日に廃止された。列車の最終運行はその前日である1990年12月31日である。


ちなみに鉄道線の廃線跡地は、ほぼ全線(児島小川-児島間における大正橋-児島駅の周辺区間を除く)が自転車道として整備されており駅跡地もある程度(児島小川駅および茶屋町駅直通時代の旧児島駅を除く)は残されている。


バス事業

本社、興除、児島と3箇所の営業所を持ち、岡山・倉敷・茶屋町・児島の各駅、天満屋バスセンターを拠点に高速バス、一般路線バスを運行。

この他、岡山中学校・高等学校へのスクールバスの運行も行っている。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました