概要
本名「大島九(おおしま ひさし)」。
永 六輔、中村 八大らと共に、「六八九トリオ」として日本歌謡曲界屈指のヒットメーカーとして名を馳せた。
代表曲に「上を向いて歩こう」や「明日があるさ」など。
来歴
芸能界デビュー前
川崎市の荷役請負業を営む父「坂本寛」の9番目の子供として生を授かる(なお後妻である九の母親「いく」としては3人目の子供)。
名前の由来は9人目になってさすがにネタが尽きたと言う理由からつけられたと言う説がある。
高校の時に両親が離婚し、母の旧姓である「大島」を名乗る。
ただ離婚した後も、家が近所だったこともあり家族の交流が途絶えることはなかったようである。
この頃エルヴィス・プレスリーに憧れ、近所では右に出るものがいないと言われるほどのものまねで仲間内の人気者となっていた。
芸能界デビュー
1958年にかのザ・ドリフターズのギターとして加入していたが、半年後に脱退。YAHOO!知恵袋で「いかりや長介と喧嘩別れ」がベストアンサーとされているが、当時いかりやは加入前であり全くの誤りである。
その後ダニー飯田とパラダイス・キングでボーカルとしてレコードを出すが、あまりパっとしない売上であった。
1960年に東芝レコードに移籍しソロデビューを果たすと、移籍後第一弾にリリースした「悲しき六十才」がヒット。一気にスターダムを駆けあがる。
その翌年には日本どころか海外でも「SUKIYAKI(スキヤキ)」として爆発的ヒットを誇る「上を向いて歩こう」をリリース。アメリカで最も権威のあるヒットチャートであるビルボードチャートにて、3週連続1位を記録。
これは東洋人・日本人では初。その後アメリカの歌手によって数回カヴァーされたが、ビルボードチャート1位を獲得したのは坂本九が歌ったオリジナルのみであり、この点においては同チャートにおいて唯一のケースである。
さらに1964年にはアメリカにおけるセールスが100万枚を超え、日本人初のゴールデンディスクを受賞している。
国内外でヒットを飛ばし、名実ともにスターとしての地位を確固たるものにした裏で、チャリティー活動にも精力的に参加。
中でも手話の啓発活動には力を入れており、手話の歌を発表したほどであった。
あまりにも早すぎた死
そんな坂本のスターダムはあまりにも不幸すぎる形で打ち切られた。
1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故である。
普段は全日空を利用していたがお盆のため満席で取れず、やむなく日航を利用したために遭遇してしまった。
当時ジャンボ機の墜落事件と言うだけでもかなりの衝撃であったが、国民的スターであった坂本九が乗客として乗っていたことでより多くの国民を悲しませることとなった。
この日NHK-FMで公開録音を行っており、これが坂本九最後の仕事となった。
事務所の意向により、JALの機内では坂本の曲は流されない。坂本以外の歌手がカバーした作品も厳禁である。
その他の代表曲
競作。
- 明日があるさ
- 幸せなら手をたたこう
- レットキス (ジェンカ)
本来はフィンランドのダンスミュージック。日本では元々は青山ミチが歌っていた。
- 世界の国からこんにちは
「え?三波春夫の持ち歌ぢゃないの!?」と言う声もあろうが、実はNHK紅白歌合戦では坂本が披露している。さらに言えば「オリジナルシンガー」は吉永小百合である。
- 親父
坂本自身が作詩・作曲を手掛けた。
ラストシングル(ただし元々は「懐しきlove-song」のB面だった)。