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南部信直の編集履歴

2019-05-07 16:24:23 バージョン

南部信直

なんぶのぶなお

戦国時代の陸奥にいた武将の一人

誕生から宗家との対立まで


1546年、清和源氏流南部氏の分家・石川高信の長男として誕生。


1565年、いとこ(異説有)の南部晴政の養子になるも

その後に晴政に実子が誕生。これで晴政と信直に亀裂が生じたという。


1570年(1571年説有)、実父の石川高信が津軽為信に攻められて自害。

(これは晴政と為信が企てた陰謀という見方がある)


その後は分家の北氏、南氏とともに宗家や九戸家と対立する。


家督相続


晴政の子で当主の晴継が死去すると

宗家存続での話し合いが再発。

九戸家は政実の弟・実親を推したが


北信愛が事前に八戸正栄に調略を行い

結果、信直が当主になる。

これがのちに九戸政実の乱という大乱の原因となった。



津軽為信との対立


何とか当主になった信直だったが

津軽地方の為信の動きはもはや抑えられず

さらに、信直に先駆けて為信が豊臣秀吉にあったことで

為信は大名として正式に認められ

不服とした信直だったが津軽の代わりに新たな領地を与えられたことで納得した。



晩年


朝鮮出兵の際は海こそ渡らなかったが九州へと赴いた。

盛岡(当時は不入岡と言われていたので縁起のいいのに改名)に居城を移した。

(この移転は伊達家けん制のためと言われている。)


最後は九戸城で死去。最後の最後まで為信との和解は成立しなかった。

最後は「大事にはいたっていない。海藻が食べたい」と言ったがその直後に死去したという。

1599年11月22日の事であった。


後は実子・・南部利直が継ぎ、南部家は江戸時代も領地替えもなく続いた。



主な家臣


信直が当主になる際に尽力した北氏、南氏のほか

同族の石亀氏や八戸氏を家臣とした。。



・北信愛

南部氏一族で祖父は南部氏21代目だった。

(父が誕生したのが祖父の死没の翌日だったため母方の北氏に追いやられた経緯がある)


1600年の奥州合戦では突如攻めてきた一揆勢を少数ながら撃退する活躍を見せた。

八戸氏の力を恐れた宗家は信直が死んだ後もけん制役として徴用した。


・八戸正栄

一時は当主候補になるも北信愛の説得で辞退した。

盲目であったが信直の右腕として活躍した。


・石川政信

実弟。高信と同様、為信に攻められ自害したというが

異説もあり、果ては実在否定される始末である。


関連項目


東北勢 盛岡

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