現在の北海道松前町に居館(のち松前城)を置いていた蝦夷地唯一の藩。藩主は松前氏。
概要
蝦夷地は寒冷地のため稲作ができない(江戸時代後期には稲作が始まったが、収穫は微々たるものだった)ので実質的な石高はゼロだったが、北国ならではの特産品がいくつもあり、アイヌとの交易もしていたので、経済的にはとても豊かだった。格式としては「十万石格」の大名として扱われていたが、実質的な経済力はさらに上だった。
しかし、相次ぐお家争い、近江商人と結託した藩士らのアイヌ(や出稼ぎの和人)への虐待、交易の利益を独占するためロシアの南下を隠蔽し蝦夷地の開発を遅らせたことなど、藩政の評価は総じて高くない。
1807~21年の間は、ロシアからの守りをおろそかにする松前藩の怠慢にしびれを切らした幕府に蝦夷地支配を取り上げられた。大変樺太までの航路が開かれるなど蝦夷地開発が進んだのはこの幕府直轄時代である。松前藩は陸奥国梁川に転封され、飛び地も含めて4万石余の石高だったが、藩の台所は大いに困窮した。
松前城を築城したのは1854年(安政元年)のことで、既に世は幕末である。この城はロシアからの艦砲射撃を想定して海からの守りを鉄壁にしていたが、戊辰戦争では旧幕府軍に陸から攻め込まれてあっさり落城した。天守は明治以降も残っていたが1949年に火事で焼失した。