現在の北海道松前町に居館(のち松前城)を置いていた蝦夷地唯一の藩。藩主は松前氏(慶長4年(1599年)蠣崎氏から改姓)。
解説
蝦夷地は寒冷地のため稲作ができない(江戸時代後期には稲作が始まったが、収穫は微々たるものだった)ので実質的な石高はゼロだったが、北国ならではの特産品がいくつもあり、アイヌとの交易もしていたので、経済的にはとても豊かだった。格式としては「一万石格」(幕末に三万石格)の大名として扱われていたが、実質的な経済力は十万石以上の大大名に匹敵した。
しかし、相次ぐお家争い、近江商人と結託した藩士らのアイヌ(や出稼ぎの和人)への虐待をはじめ、飛騨屋や高田屋など蝦夷地開拓に貢献した商人を事実無根の咎で取り潰したこと(彼らから借りていた御用金を踏み倒すことが狙いだったと言われる)、交易の利益を独占するためロシアの南下を隠蔽し蝦夷地の開発を遅らせたことなど、藩政の評価は総じて悪い。
1807~21年の間は、ロシアからの守りをおろそかにする松前藩の怠慢にしびれを切らした幕府に蝦夷地支配を取り上げられた。樺太までの航路が開かれるなど蝦夷地開発が進んだのはこの幕府直轄時代である。松前藩は陸奥国梁川(現在の福島県伊達市)に転封され、飛び地も含めて四万石余の石高で、さらに手当金として年一万八千両が支給されたが、藩の台所は大いに困窮した。
松前城を築城したのは1854年(安政元年)のことで、既に世は幕末である。この城はロシアからの艦砲射撃を想定して海からの守りを鉄壁にしていたが、戊辰戦争では旧幕府軍に陸から攻め込まれてあっさり落城した。天守は明治以降も残っていたが1949年に火事で焼失した。