概要
時は大正時代、それまで大日本帝国海軍の潜水艦は輸入やライセンス生産で導入していた。(ただし川崎型こと、波号第六潜水艦は設計から建造まですべて日本側で行った潜水艦があったが、比較対象より性能が劣っており、増産はされなかった)
しかし、数々の経験により技術は着々と蓄積していった。 このような技術を生かして誕生したのが海中1型潜水艦であった。
目標は、当時の最高水上速力18ノットであったが、性能は著しくなく改善は続けられたが、本級で艦隊随伴は困難と判断され一旦建造は取り止められた。
しかし、ロンドン軍縮会議がきっかけで新たに建造が行われ、太平洋戦争時には大量生産が行われた。
分類
ワシントン軍縮条約以前の海軍中型潜水艦
海軍中型潜水艦の最初のグループ。 S型潜水艦をベースとして設計されており、大日本帝国海軍が1から設計して建造した初めての潜水艦のグループである。
当時の最高水上速力18ノットを目指したものの、主機のトラブルに悩まされ、水上速力も改良を行ったために排水量が増大したにも関わらず主機がそのままだったために速力が低下した。
その後、ドイツの潜水艦を戦時賠償艦として入手したことやドイツの潜水艦の戦果を参考にして新たな海軍中型潜水艦が建造された。
一つは、今までと同じコンセプトで、もう一つは出力を抑える代わりに航続距離を伸ばしたものだった。 結果は潜航航行は良好だったが、片方は最高水上速力18ノットに到達できず、もう片方は航続距離が水上では大きく差が出るものの、水中ではあまり変わらない結果となる。
結局、大日本帝国海軍は海軍中型潜水艦では艦隊随伴できる速力はだせないと判断、艦隊随伴には海軍大型潜水艦で目指すことになり、呂号クラスの潜水艦の増備は総合的に優秀と言われるL4型潜水艦を建造することになった。
こうして、海軍中型潜水艦は一旦建造が止まってしまう。
なお、このグループ内の艦艇は、太平洋戦争開戦前に除籍されていた。
・在籍艦
呂号第十六潜水艦 呂号第十七潜水艦 呂号第十八潜水艦 呂号第十九潜水艦
呂号第二十潜水艦 呂号第二十一潜水艦 呂号第二十二潜水艦 呂号第二十三潜水艦
呂号第二十九潜水艦 呂号第三十潜水艦 呂号第三十一潜水艦 呂号第三十二潜水艦
ロンドン海軍軍縮条約以降の海軍中型潜水艦
時は進み昭和5(1930)年ロンドン海軍軍縮条約にて、上限排水量2000トン以下・備砲5.1インチ以下(3隻のみ 上限排水量2800トン以下・備砲6.1インチ以下 を認める)・合計排水量5万2700トンの制限が設けられた。
それに伴い大日本帝国海軍は、排水量が少ない潜水艦を増やすことで数で有利であると考えた事と、海軍大型潜水艦の不足分を補う目的で呂号潜水艦の海軍中型潜水艦を再び建造することになる。
戦時急造艦のプロトタイプとして海中6型が2隻建造され、太平洋戦争に突入すると海中6型をベースに改善した中型(海中7型)が戦時量産された。
また、潜水艦の大量建造を計画していたが、現状では全艦の竣工は明らかに難しいものだった。 そのため一部の計画を取り止め、その分の戦闘用潜水艦の代艦として中型が候補に挙がっていた。 しかし、計画は無くなりそれどころかそれまで計画されていた中型の建造も取りやめとなってしまった。
余談であるが、海中6型、中型(海中7型)の性能はワシントン軍縮条約以前の海軍中型潜水艦に比べても良好であり、乗務員からも好評だった。
なお、このグループ内の艦艇で終戦時残存した艦艇は、呂号第五十潜水艦の1隻のみであった。
・在籍艦
中型(海中7型)
呂号第三十五潜水艦 呂号第三十六潜水艦 呂号第三十七潜水艦 呂号第三十八潜水艦
呂号第三十九潜水艦 呂号第四十潜水艦 呂号第四十一潜水艦 呂号第四十二潜水艦
呂号第四十三潜水艦 呂号第四十四潜水艦 呂号第四十五潜水艦 呂号第四十六潜水艦
呂号第四十七潜水艦 呂号第四十八潜水艦 呂号第四十九潜水艦 呂号第五十潜水艦
関連タグ
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