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イギリス国鉄の編集履歴

2020-09-02 18:16:55 バージョン

イギリス国鉄

いぎりすこくてつ

イギリスの国有鉄道。1948年から1997年まで存在した。

概要

第二次世界大戦後に成立した労働党政権の社会主義的政策の一環により、主要私鉄を国有化して誕生した。電化やディーゼル化などの合理化が進まず、1960年代に行われた大規模な路線廃止によって利用者が減少し、慢性的な赤字経営に陥っていった。1994年から1997年、上下分離方式により民営化された。現在は線路の所有と保守管理を担う(日本でいう第三種鉄道事業者)ネットワーク・レールとなり、列車の運行は民間の会社が担当している。

歴史

国鉄の誕生

1945年、第二次世界大戦中のイギリスを牽引してきた保守党のチャーチル内閣に替わり、労働党のクレメント・アトリー内閣が成立した。労働党は主要産業の国有化を公約にしており、鉄道もその中に含まれていた。1948年、1923年の鉄道業界再編で成立した四大私鉄(ビッグ・フォー。ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道、グレート・ウェスタン鉄道、サザン鉄道)を国有化してイギリス国鉄(British Rail)が誕生する。

従来私鉄各社では車両の構造に差異があったが、国有化後は車両の標準化がすすめられた。初期の標準車両としては、1951年から製造が始まった標準型蒸気機関車やMk.Ⅰ客車などがある。1951年には保守党が政権を奪還し、ふたたびウィンストン・チャーチルが首相に就任するが、国鉄の再民営化は行われなかった。

近代化

鉄道誕生以来、動力として用いられてきたのは蒸気機関車であったが、20世紀に入るとエネルギー効率に優れる内燃機関やモーターを動力源とするディーゼル機関車や電車が実用できる水準に達した。しかし産業革命発祥の地であり蒸気機関が高度に発達したイギリスでは、蒸気機関車が十分に高性能であったため、こうした新技術の導入は進んでいなかった。周辺国、特にフランスやアメリカでディーゼル機関車や電気機関車の導入が急速に進むことに危機感を覚えたイギリス政府は、1955年に幹線の電化やディーゼル機関車の開発を主眼とした近代化計画を策定する。

近代化計画のもと、各種の近距離用気動車や、後のインターシティ125のもととなる固定編成の特急気動車「ブルー・プルマン」など、新たな列車が次々と登場する。一方で新規に開発された本線用ディーゼル機関車は英国面の香り漂う独特なものばかりで種類も無駄に多く、まともに運用できるようになるまでには多大な努力を要することとなる。また車扱貨物輸送の維持のためヤードの改良も行われ、貨物のコンテナ化が進まないという問題もあるなど、必ずしも順調な滑り出しとは言えない面もあった。

ビーチング・アックス

1960年代に入ると、人件費の増加、および政策によって過度に低く抑えられた運賃などが原因となって、もはやイギリス国鉄の赤字は看過できない水準に達していた。1963年、当時のイギリス国鉄総裁リチャード・ビーチングは、電化を早く進め、貨物のコンテナ化を促進するとともに、ローカル線の廃止を進めて赤字を解消するよう提言した。しかし政府は近代化政策が順調に進んでいないためか、さらなる設備投資には消極的であり、ローカル線の廃止のみを推進した。

結果的にはこれは大きな失敗だった。そもそも赤字の大部分は絶対的な輸送量が多くないローカル線ではなく、膨大な需要を抱え、保守や設備投資に多額の費用を要する幹線で生じていたからである。日本でも国鉄末期にみられたような営業係数だけを基準とする機械的なローカル線の廃止は、これまで幹線に乗り継いでいた乗客の鉄道離れや、貨物輸送のトラック化を一層加速させることにつながっていった。1968年にローカル線の廃止政策は撤回され、赤字を政府が補填することが決められたが、この時点ですでに1万キロ以上の路線が廃止となっていた。この一連の廃止政策は「ビーチング・アックス」の名で知られている。

APTとHST-高速化への道

近代化も60年代にはある程度形になり、1968年に無煙化が実現した(これは日本国有鉄道より8年早い)。さらに東海道新幹線の開業を受け、都市間輸送の高速化のため車体傾斜機能を持つ新型ガスタービン気動車、APT(Advanced Passanger Train)の開発も始まった。

しかしAPTはあまりにも野心的すぎる車両であり、1970年になっても一次試作車であるAPT-Eの試験さえ始まっていなかった。そこで同年、新たな技術の導入を控え、従来の技術に基づく高速列車、HST(High Speed Train)の開発が始まった。1972年に行われた試験走行の結果は良好で、時速230.5キロのディーゼルカーの世界最速記録を作っている。これを受けて1975年より量産が開始され、1976年から営業運転に投入された。営業最高速度時速200キロの性能を持ち、今日までイギリスの幹線を支え続ける名車、インターシティ125の誕生である。

当初HSTはAPTが完成するまでのつなぎという位置づけであったが、結局APTがHSTを置き換えることはなかった。1972年に量産車の動力方式を電気に変更することとなり、1973~76年に行われたAPT-Eの試験走行の結果を反映して、二次試作車のAPT-Pが1979年に完成した。しかし営業運転を想定した試験走行で続出する故障や、10度という大きな車体傾斜角による乗り物酔いを一部のメディアが執拗に攻撃したこともあり、APTが営業運転に就くことはついになかった。試作車に改良が加えられた1984年には、営業運転をめざした試験走行が再開されるものの、HSTが十分な成功をおさめた今、あえてAPTを導入する必然性は薄れていた。1986年には試験走行は再び中断され、APTは歴史の表舞台から消えていった。

そして民営化へ

1980年には、それまでの地域別の支社(リージョン)が業務内容に基づく5つのセクター(部門)に再編される。1980年代は、東海岸本線の電化とAPTに代わる電車特急インターシティ225の投入、ロンドン市内を縦貫するテムズリンクの開業など、さらなる改良が進められていった。さらなる高速化をめざす新型列車インターシティ250の計画もあった。

そうした中、公共サービスの民営化を進めるサッチャー内閣は、鉄道の民営化も計画した。1993年、メージャー内閣のもとイギリス国鉄の民営化が決定。1994年から1997年にかけて、イギリス国鉄は線路の保有と保守を担うレールトラックと、線路使用料を払って列車を運行する民間会社とに分割され、およそ半世紀の歴史に幕を下ろした。

その後

民営化後はサービス改善もあって鉄道の利用者は過去最高の水準になり、ビーチング・アックスの際に廃止された路線が復活したり、インターシティ125/225にかわるハイブリッド車、日立製の800系が導入されるなど、設備投資は活発化している。

一方で単独で利益を出さねばならないレールトラック社による線路の保守管理の下請け化によって保線は杜撰なものとなり、2000年にレールの破断で特急が脱線するハットフィールド事故を招いた。それ以降レールトラックは公的企業のネットワーク・レールとなり、現在に至っている。また列車運行会社の中にもサービスの維持が困難な会社が出てきており(高額な線路使用料のため利益が上がらず撤退したヴァージン・トレインなど)、重要な路線については再び公営化が行われるなど、政府が関与する場面が増えつつある。

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