はじまりはイギリス製
第二次大戦前、ソビエトも来たるべきジェット機の時代を見据え、
ジェットエンジン「RD-1」の開発を進めていた。
しかし、そのさなかにドイツが侵攻して「ドイツ・ソ連戦争」が勃発して開発作業は棚上げとなった。
1944年、ジェットエンジン開発計画は再始動。
戦争で獲得したドイツの技術者や研究資料も吸収し、1946年にはMiG-9戦闘機が初飛行した。
しかし、それは満足する性能には至らなかった。
満足する性能のためには、より推力の大きい新型エンジンが必要だったのだ。
そこで、ソビエトはイギリスに当時最高のエンジン「ニーン」と「ダーヴェント」の売却を打診する。
交渉はソビエトが食糧を輸出し、代わりにエンジンを購入することでまとまった。
こうして、ソビエトは最高のエンジンを手に入れる事となったのである。
ドイツの科学力とソビエトの工業力
イギリスからエンジンを輸入したソビエトは、さっそくコピー生産に取り組んだ。
ミグ設計局が選んだのは「ニーン」エンジンを使った戦闘機だった。
コードネーム「I-310」開発計画は、正式な指示の出る前に始まっていた。
設計局内部での名称は「製品(イズデーリャ)S」。
ドイツから押収した技術者や研究資料を最大限に活用し、
後退翼やT字尾翼といった最先端の技術をふんだんに盛り込んだ。
名実ともに、まさに当時の最高・最先端の戦闘機だった。
1947年12月30日、MiG-15は初飛行に成功。
翌年夏、正式に「MiG-15」の名称と生産命令が下る。
1949年には「数あるジェット戦闘機の中から、生産をMiG-15一本に絞る」との指示が下された。
かくして9つの工場がMiG-15を生産する運びとなり、
朝鮮半島にて
高性能を発揮する機会は早くにやってきた。
1950年10月末、北朝鮮軍に反転攻勢を挑んだ国連軍は中国義勇軍に遭遇する。
その中でも最も手ごわい強敵、それがMiG-15だったのである。
当時、国連軍にはアメリカ空軍のF-80やF-84、アメリカ海軍のF-9F、
イギリスではミーティアのようなジェット戦闘機を有していた。
しかし、これらはすべて直線翼であり、第二次大戦の戦闘機から発達しきれていないものであった。
当時の最新鋭だったにもかかわらず、MiG-15の登場ですべてが『一晩にして』時代遅れとなった。
小型・軽量で上昇力に優れ、また大きな火力を備えるMiG-15は恐怖の的となった。
太平洋戦争では『空の要塞』として知られたB-29もその例外ではなかった。
むしろ、爆撃機の迎撃が本来の想定だったのだ。
1951年4月12日、49機のB-29が鴨緑江(ヤールーガン)にかかる鉄橋に空襲をかけた。
52機のF-84やF-86に護衛されていたにもかかわらず、
3機が撃墜・7機が損害を負うという大損害を出している。
(太平洋戦争のように基地が遠かったら、合計10機は全て墜落していただろう)
空軍戦闘機の脅威として
朝鮮戦争が1953年に停戦になるまでMiG-15の存在は脅威とみなされ続けた。
いくらF-86であっても、『実際の勝敗はパイロットの腕しだい』と評された程なのである。
性能に多少の長短こそあっても、総合的には互角だったのだ。
しかし、MiG-15には『音速に近い速度になると操縦が困難になる』という不具合があった。
急上昇では逃げられなくても、急降下で音速を超えればF-86は逃げられたのだ。
このような弱点を修正し、音速を超えられるようになるためには続くMiG-17を待たねばならない。
また、対爆撃機用に大口径の機銃を搭載していたことも、格闘戦で不利に働いた点である。
とくに37mm機銃は弾丸が重く、距離が離れると当たりにくいのだ。
発射速度も速くはなく、対戦闘機用の武装としては使い難かった。
むしろそれは同じく搭載された23㎜機銃の出番だった。
しかし搭載できる弾数は少なめであり、やはり戦闘機相手は不利だった。
(37㎜は40発、23㎜は80発を2連装)
それを補ったのはエンジンのパワーであり、空戦では有利な位置を占めることで弾数の不利を補った。
初めてのジェット戦闘機として
このMiG-15はソビエトで初めて大規模に生産された戦闘機である。
なので、パイロットにジェット機の操縦を覚えさせるために練習機型も開発された。
それがUTI-MiG15である。
(MiG-15UTIとも)