清朝の第六代皇帝 治世60年 太上皇帝4年 十全老人 高宗皇帝
【蒼穹の昴より】
- 雍正帝の皇位継承は凄惨な結果を生み出したが、乾隆帝の即位は誰もが認めるところだった。
- 幼少から祖父康熙帝に可愛がられ、帝王学を授けられ、才覚にも優れ、尚武の気質も備わっていた。まさに生まれながらの皇帝として雍正帝の跡を継いだ。
- 乾隆帝はまず宮廷制度を充実させ、たびたび減税を行い、内政の安定を図った。また貨幣経済が発展し、各地の産物も広く交易され、茶や絹織物や陶磁器は遠くヨーロッパまで輸出された。大量の銀が海外から流入し、清朝の財政はかつてないほど豊かになった。
- その財力を基に、乾隆帝は十度にわたる外征を行った。北はモンゴル遊牧民のジュンガルを討ち、西はウイグルのホージャ一族を滅ぼすと、その地を、新しい領土「新疆」(しんきょう)と名づけて帝国の拡大を図った。また南はベトナム、台湾、雲南、ビルマ、ネパールなどに、それぞれ大遠征を行い、これにより清朝の最大版図(今日の中国の領土)を形成した。(十全の治・十全武功・十全老人)
- 乾隆帝は絵画や文芸、歌舞音曲、建築、工芸にいたるまで、幅広く芸術を愛し、歴史的な名品を作らせて数多くの文化的遺産を後世に遺した。この頃、宮廷文化は爛熟期を向かえ、清がもっとも繁栄を謳歌した時代であった。
余談
- 性格で言うと乾隆帝はかなり派手好きで、わがままであった、そして芸術も愛した。「お坊ちゃん」のことばがふさわしい。
- 祖父帝の康熙帝を越えようと思っていたようだ ただ、康熙帝廟号「聖祖」は康熙帝のための廟号で「後」の人々が付けたもので、乾隆帝は自ら「十全の治・十全武功・十全老人」と名乗っているのである。
- 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南など実質的には負けの遠征もあった。
- 苗族の反乱や白蓮教徒の反乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。
なお、満漢全席の生みの親である
享年88
太上皇(たいじょうこう)
太上皇(たいじょうこう)は退位した存命の皇帝に送られる尊号のこと上皇または太上皇帝とも。「太上」は「最高の」という意味。
中国では同時期に存在する太上皇は一人のみであり太上皇存命時に皇帝が譲位し新たな太上皇となった場合もとの太上皇には無上皇の尊号が奉られたことがあった。日本では位を退いた日本の天皇には太上天皇の尊号が奉られる。