概要
三国時代の蜀の武将馬謖が街亭の戦いにおいて、諸葛亮(孔明)の指示に従わなかった結果大敗を喫してしまった。この責任を取るため馬謖は孔明から死罪を言い渡されるが、愛弟子でもあった馬謖の処刑に際し孔明は涙を流したという。
そこから転じて、「組織の規律を守るため、大失態を犯した者はたとえ寵愛する部下であったとしても容赦なく処罰しなければならない」という例えとなった。
一方で「泣くほどなら自分で斬らなきゃよかったのでは?」という、野暮ながら尤もな疑問もついて回っている。
しかし馬謖が処断されたのは「命令違反」の件以上に「敵前逃亡」の件であり、また馬謖も30代後半という当時からしてそろそろ腰を据えて重臣の地位を賜っておきたい年齢であった。
つまり「一軍の将が浮き足だった姿勢で戦に挑んだ末に大失態を犯して逃げた」という、家臣団や後進にどうあってもケジメのつかないしくじりを犯した以上、見せしめの意味も込めて孔明自身の手で処断するしか示しがつかなかったのである。