連合国の目を盗んで
機体のモックアップ(木製の実物大見本)は1934年に製作された。
という事は、開発最初の作業は敗戦国としての監視の目を盗んで行われたのである。
1935年3月16日、ヒトラーがドイツの再軍備を宣言。
同年、Ju87の制式採用が決定。
以降は堂々と開発が行われる。
スペインの風
最初の実戦投入はスペイン内乱である。
この頃は未完成の機体であり、搭載量も最大250㎏に制限されていた。
原因はエンジンのパワー不足である。
この戦訓を基に改良が加えられ、初期に『スツーカ』として有名になるJu87Bが登場するのである。
ちなみに、スツーカのサイレンはここでの戦訓で取り付けられたという。
ブリッツ・クリーク(電撃戦)
続いて投入されたのはポーランド侵攻、そしてフランス侵攻である。
ここで有名となったのは急降下爆撃と、それに伴う『サイレン』の音である。
本当は付けなくても風切音でそう聞こえるのだが、
「今から爆撃するよ」といった大音響は脅威となり、
フランスでは爆弾を使い切ったJu87が、爆弾なしの急降下だけで敵を敗走させた逸話が残っている。
バトルオブブリテンにて
ここまでがJu87Bの活躍である。
以降は合理化・改良型のJu87Dが登場し、主力となる。
なお、バトルオブブリテンにおいてJu87はあまり活躍できなかった。
急降下爆撃のために重い機体は速度を犠牲にし、重い爆弾と相まって撃墜される機体が続出した。
後部機銃手には7.92㎜の機銃が1丁だけ。これではいかにも頼りない。
登場当時でもそう高くない性能は、ここに限界を迎えたのだった。
独ソ戦開幕
しかし、ドイツ空軍はJu87を使い続けた。
これしか無かったからである。
1941年にドイツがソビエトに宣戦布告し、独ソ戦争が始まった時もJu87は主力だった。
Ju87Bには更なる改良が加えられ、エンジンのパワーアップ等がされたJu87Dへ発展した。
当初はソビエト空軍が劣勢な事もあり、比較的自由に作戦行動できた。
しかし、次第にソビエト空軍が初期の損害から立ち直ってくると、事態は一変した。
ソビエトは戦闘機を次々に改良し、しかも大量に投入してきたのだ。
改良されたとは言え、もともとが戦間期の機体であるJu87が対抗する術は無かった。
象徴的なのが1942年のスターリングラードの戦いであり、ここにドイツ爆撃機部隊は終焉を迎えたのである。
急降下爆撃部隊とて例外ではなかった。
壊滅こそ免れたものの、大損害を負ってしまったのだ。
この損害は1943年のクルスクの戦いでも尾を引き、
(そもそも空軍の支援可能な規模を大きく超えた戦いだったが)
陸軍の大損害も相まって、急降下爆撃はすっかり鳴りを潜めてしまった。
性能の低いJu87に代わり、ここからはFw190の攻撃機型が主力となった。
(Fw190FやFw190G)
内容も「急降下爆撃」から「対地攻撃」へと転換していくのである。
なお、戦闘機としては『全くの役立たず』とまで言われたBf110も、
この目的ではよく活躍していたという。モスキートと同様である。
(ただし、飛行性能は劣る)
カノン・フォーゲル(大砲の鳥)
急降下爆撃による地上部隊支援も難しくなる一方だった。
しかし、Ju87も生き残りを賭けた最後の進化を残していた。
『対戦車攻撃機』ことJu87Gへの発展である。
1943年、クルスクの戦いに先立って最初の生産機が前線に到着した。
この中の1機にはルーデルが搭乗し、活躍については当該項目の方が詳しいだろう。
Ju87GはJu87Dと共に終戦まで戦い続け、ドイツ空軍の最期に華を添えたのであった。