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松井宗信の編集履歴

2022-12-04 01:24:26 バージョン

松井宗信

まついむねのぶ

松井宗信とは、東海地方の戦国武将の1人。通称は、左衛門佐。今川家の家臣として、氏輝、義元、氏真の三代に使えた忠臣である。永正12年(1515年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))

概要

松井宗信は、遠江の国衆であった松井貞宗の次男として、1515年に生まれる。

宗信が生まれた頃の遠江は、今川氏親が遠江・尾張の守護であった斯波氏を遠江から追放し、今川氏が遠江の実行支配者となった時であった。


宗信の幼少期は確たる資料が残っていないので不明だが、次男であった宗信は幼少期は駿河で人質として暮らす傍ら、今川家の側近としての教育を受けたのではないかと言われている。


1529年に兄で松井氏の家督を継いでいた信薫が病死したことで、松井氏の家督を継いで、二俣城の城主となる。


今川氏輝時代から活動は見られるものの、本格的の史料に登場するのは花倉の乱を経て、今川義元が家督を継いでからのことである。


義元は松平清康の死で混乱する三河の地に食指を伸ばし、同時期に三河を侵略していた織田信秀と戦禍を交えることになり、宗信は織田氏の戦いの中で武勇を発揮して多いに活躍していくことになる。


特に三河の田原城攻めにおいては、義元から受けた冠状には「粉骨無比類の働きなり」と多いに称賛されている。


1560年の桶狭間の戦いにおいて、主君義元と共に討死を遂げる。享年46。

その最期は、織田信長の猛攻で危険に晒された義元を守るべく、僅か200程の兵で立ち塞がり、自ら得物を持って戦って、力尽きたという。

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