概要
生没年不詳(※生年を保延5年(1139年)、没年を建仁3年7月21日(1203年8月29日)とする説がある)
宗派:真言宗
生涯
摂津源氏の渡辺党の遠藤茂遠の子として生まれ、若い頃は北面の武士を務め、俗名を遠藤盛遠といった。
数え年で19歳のとき、盛遠は同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻・袈裟御前に恋慕し、源渡を殺害してでも袈裟御前を手に入れようとした。
しかし、袈裟御前が夫の身代わりとなって死んだため、これを機に出家し、名を文覚と改め、諸国の霊場を遍歴、修行した。この修行の様子はしばしば画題となっている。
文覚は空海を殊の外尊敬していたため、1168年には神護寺に住み、修復に努めた。
1173年には後白河法皇の御所の法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して法皇の怒りを買って伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会った。このとき、懐から苔むした髑髏を取り出して「これがあなた様のお父君でござる」と平家打倒のための決起を促したものの、当初は相手にされなかったことは有名である。
1178年には許されて帰京し、後白河法皇に仕えた。1179年、平清盛が法皇を幽閉すると、伊豆の頼朝に平氏打倒を再び勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促した。
1183年に法皇から紀伊国(和歌山県)桛田荘を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から厚い信頼を得て寺領の寄進を受け、神護寺の復興に力を注いだ。
1190年には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、1189年には播磨国が造営料国にあてられ、1197年には諸堂の修造を終えた。こうして、文覚の長年の悲願はかなったのである。
しかし、文覚の人生にやがてかげりが生じ始めた―――――――――
1192年に後白河法皇が崩御し、その7年後には頼朝も急死したことで、文覚には後援者がいなくなってしまった。そして、右大臣の土御門通親の策に嵌ってしまい、謀反のかどで佐渡に流罪とされた。一度帰京することはできたが、今度は後鳥羽上皇の怒りを買って九州に流罪とされ、そこで没した。
死後、亡霊となって承久の乱に敗北し、隠岐に配流される後鳥羽上皇の前に現れたという伝説がある。「鎌倉殿の13人」の最終話にもその伝説を再現したとおぼしきシーンが見られる。